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石原慎太郎の小説の主題歌ですって。
……なんだかなあ、何アホ抜かしてるんだって感じですが。
人間、長生きすれば首尾一貫しないのはあたりまえですが、石原慎太郎といえば、『太陽の季節』って印象がどうしてもあるので、自分が年取って戦争にいけなくなってから、戦争の話を礼賛するのってどうよ、と思う。
自分が銃を持って戦争にいける年の内に、そういったことを礼賛するなら分かる。話が合ってる。自分の命を賭けたいと思うのなら、それは迷惑であっても、事実、話としてはアリだと思う。
……でも、アンタ、もういいオッサンでしょう?
最近、なんか妙にセンチメンタルな戦争モノが流行ってる気がするのですけれども。
『出口のない海』とかさー。『硫黄島からの手紙』の取り上げられ方もいまいちだと思った。
前線に出て行ったひとりひとりの思惑は、まあ、いい。個人の問題だからアレコレ言いません。でも、日本は無能な上層部のせいで、どーしよーもないあほらしい戦争をやった上に、必要以上に大量の犠牲者を出したんだ、っていう事実をどう思うのよ。
戦争は汚い。そして、あくまで『政治的な』問題である、というのが最近の私のスタンスです。
最近、自分の中で新聞の国際欄を読むのがすごくオモシロいのですが、あれを見ていると、『戦争』ってのは、憎悪の問題でも、民衆の問題でもなんでもなく、『政治』のモノだっていう部分がすごく大きいなぁーと思う。
歴史ってのは政治が作るものだ。そんで、歴史があるから、『戦争』が起こる。たぶん、こういうのは地理的に不安定だった地域の人々はよく知ってるのでしょうが(『最後の授業』のアルザス地方なんか代表的)、国なんてモンは歴史的には災難以外の何者でもなかった。日本はたまたま島国で、かつ、大陸からの距離が適度だったために『国家というのは政治の産物である』ということをあんまり理解しない気がするけれども…… 歴史的に侵略戦争をほとんど体験していない上に、近代国家・先進国となってる国なんて、他にはありませんよ? 強いて言えばアメリカくらいです。
アフリカ辺りの国なんかをみると、まさしく、国家が『災厄』以外の何者でもなくなってるという事実が、存在している。
政治・法・歴史学には無知な私なんで、あまり正しいことを言ってる自身はないのだけれども、国家ってのはあくまでサービス事業なんじゃないのかなあ、と思う。
法・政・警の三つのサービスを提供する、非常に大きなサービス事業。『公僕』って言葉は非常に正しく、つまり、彼らは国民の支払ってくれる賃金のために、より良いサービスを提供することを任務としている。
でもさぁ…… その『サービス』のために人質を取られて、お前ら戦え! ってのは、どう考えても話が逆でしょう?
国の仕事が国民を守ることであり、その逆じゃない以上、「お国のために死んで来い」ってのはナンセンス以外の何者でもない。それを仕事にしている国家公務員ならイイ。でも、一般人まで戦わなきゃいけないような状態になったら、それは明らかに国が国としての機能を保ててない。
一般人が、『友を守るため』に死ぬのだったら、何故、それが『命を捨てて敵艦にアタックする』にならないといけなかったのか?
家族を連れて死ぬ気で山の中を逃げ回り、死んでも戦場へ行くまいとした人が褒められず、国に唯々諾々としたがって死した人のほうが褒められる?
なんとなく、話が逆転してる気がしますよ。
―――しかし、『特攻』にあこがれる人のキモチは、分からないでもない。
何か、自分よりも大切なものを手に入れて、それのために命を賭けられるとしたら…… 単純明快で、非常に美しい生き方です。
誰も愛せない、というのは非常に哀しいことだ。
誰からも愛されないのも無論哀しいが、『誰も愛せない』というのは、その課題よりも、さらに解決が難しい。
あくまでコレは個人的な考えなんですけれども、殺人者は被害者よりも哀しい、というようなモノです。
被害者は、あくまで、『運』で決まる。彼はむちゃくちゃ不幸であったけれども、でも、それだけです。
でも殺人者は、生涯、『人を殺すような人間』と、常に付き合わないといけない。鏡を見るといつもそこに『人を殺す人間』がいる。彼がソレを哀しいと思わないなら彼自身の人間性が悲劇だし、哀しいと思うなら生きていること事態が地獄になる。
誰からも愛されない人間は、もし、誰か…… それが恋人であっても、友人であっても、あるいは動物などであっても…… が現れて、愛してくれたなら、簡単に問題を解決できる。
でも、誰も愛せない人間は、どれだけ周りの人々に愛されても、永遠に孤独なままです。
なんか話がズレた。
まあ、そういう、『誰も愛せない』という苦悩を抱えた人ならば、『特攻』にあこがれるかもしれないな、って話ですよ!
友を愛し、家族を愛し、恋人を愛して、その『愛』が死の恐怖すら超越する…… ということは、単なる想像の上なら、非常に素晴らしいことです。単純明快です。
そこで殺される人の存在を忘れ、残される家族の悲しみを忘れ、自分自身の人生の価値さえ忘れ、それを強いた誰かは死なずに生き残るという事実を、忘れられるならね!
狂気は時に正気よりはるかに魅力的に見える。
まあ、そういう意味で、なんとなく、ここ最近のナショナリズムの流行ってのは、この世の中のアノミーっぽい状態に付け込んだ、若者の空虚感に乗じてる気がするよ、って話です。
しかもB'zがそれに乗っちゃうんだよなあ、重症だよなー、っていう気持ちです。
……特攻ソングといえば、『同期の桜』を超えるものはないヨーと思ってるユニ子からでした。
SH(サウンド・ホライズン)オンリー、参加してまいりました。
……戦果極少(がっくり)
あとで別の方々に聞いたところ、「開場して即完売のサークルが多かったですよ」とのことで、たぶん、マイナージャンルだとありがちな本のインフレが起こってたんでしょうねー。読みたい人に比して書きたい人が少ない。昔も何回か体験した状況だっただけに、納得はしました。残念なのは変わりないですが(苦笑)
あと、今回はコスプレOKのイベントだったんで、いろんな人が見られたのが嬉しかったなー。
いわゆるエリ組(アルバム・エリュシオンに出てくる5人の女の子たち)は全員いたし、他にもクロセカのロベリアとジュリエッタとか、どうやって作ったんだろう!?と思ってしまうようなゴージャスな衣装のお嬢さん方が多数でした。
あと、『仮面の男アビス』がいっぱいいた……怪しかった……
イベント後は、mixiで開催されていたサンホラオンリー後カラオケオフに参加してまいりました。
わざわざ愛知や新潟とかから来ている人も多く、サンホラ初心者としていろいろなことを教えてもらってすごく勉強になりました。あと、みなさんがいかにじまんぐ氏を愛しているかもよく分かった(笑)
カラオケ本編は…… そもそも、サンホラでカラオケが成立するっつうーのがすごかった!!
歌詞とかだとフォローされてない台詞の部分も必ず誰かが覚えているので、フォローが入ります。『黄昏の賢者』の語り部分とか暗記している方もいてものすげえ。『朝と夜の物語』だと「さあ、行っておくれ……」と誰かが言うと、全員で「ウィ、ムッシュー!」と気合入りまくり。体育会系です。お前らどこでRomanを探す気なのかと(笑)
そして、みんなでコスプレの衣装を出して、ノリノリで踊りまくる変なカラオケ。仮面の男二名、サヴァン一名、イヴェール一名。よりにもよって各アルバムの怪しい人ばっかり。
あと替え歌カラオケ『Stardast』で歌詞の《女》の部分をすべて《男》に変えるバージョンとか、むちゃくちゃ笑ってしまいました。歌ってるの男性だし。ホモの三角関係で痴情のもつれで刃傷沙汰。ひでえ歌だ。(そしてなぜかそれをゲーフェンとアルベージュで想像する私)
その後、飲み屋でサンホラトークをする人々。
「Romanの歌はどういう時間軸の順番でつながってるのか」「”聖戦と死神”は歴史的にはどのへんなのか」「『黄昏の賢者』のラストで「探したぞ、クリストフ」と言ってるのは誰なのか」というまっとうな会話から、だんだん話が横にスライドし、ギャルゲーの話とかホモの話とかで盛り上がるオタクな人々……
「ホラーが好きでギャルゲーやりたいなら、『雫』と『アトラク・ナクア』と『沙耶の唄』は絶対に押さえとけ!」と力説したら、周りの人から「ユニ子さんは絶対に女じゃない。実は男だ」と言われてしまいました。
……がんばってエレガントな服装をしていったのに!!(笑)
まあ、総じて言うと、たいへん楽しかったですよ。カラオケ久しぶりですし。
サンホラ関係の二次? っていうか、歌詞解釈の小説も書きたくなっちゃったなあ。エリ組企画とかやりたいです。昔は『Sacrifice』が一番好きだったけど、話として考えるなら『Yield』が解釈の余地が多くて面白いですね。
漫画版の『Ark』が読みたい……
UPする予定だったドラの原稿をチェックしたところ、致命的なミスが発見されたため原稿取り下げ。UPはけっこう先になると思います。どうもすいません。
とりあえず、『眠気』は『殺意』につながるということを始めて知りました(笑
普段宵っ張りだから、やっと眠くなってきた午前4時くらい、起きてきた祖母が開けた窓から入ってきた日光が文字通り肌に『刺さった』よ……!!
人の笑い声に殺意を覚えたのも初めてです。一晩眠れなくて、やっとうとうとしはじめたところの横で、人が大声で笑っているというシチュエーションは辛いぞ。大事な祖母になんていう扱いですか私。
とりあえず明日は某様に連れられて『スピコン』に参加です。
『スピリチュアル・コンベンション』の略らしいんだけれども、この同人イベントに似ているようで非なるミョーな響きは一体なんなんだろう? 楽しみです。
いや、私は三代さかのぼっても完全な日本人(しかも祖母はいわゆる三代以上続いた『江戸っ子』である。ちょっとだけ誇らしい)だけども、まあ、見た目だけだったら相手の言うことも分からないでもない。色は白いし、背は171cmもあり、目は二重ですし。でも、もっとその台詞に「しかたないな」と思ってしまう理由が別にある。
実は、私はロシアに、「私と同じ顔の女の子」を見つけたことがあるのです。
高校三年生のときに、私は、2週間ばかりロシアにホームステイしたことがあります。
高校同士が姉妹校で、定期的に交換留学を行ってる、というイベントでした。まあ、向こうが日本語を話せたので、ぜんぜん語学留学的な側面は無かったんですが、ホームステイ先についたときに、周り中の人がびっくりしました。
なんと、向こうの女の子が、私とそっくりだったのです。それも一卵性双生児?ってくらい。
無論私は日本人ですし、ルーツは確かめてないけれども、彼女は一見すれば典型的な白系ロシア人でした。でも二人並べてみると「同じ顔」だったのです……
まあ、彼女とは気もあったし、期間中は仲良くしましたが、周りからは「実は生き別れていた双子だったんじゃないか」とか、さんざん言われました。向こうの家族と写真を撮れば「家族写真を撮ってる」って言われるし。オマケに相手はアニヲタでセーラームーンとかが大好きっていうオチまでついた。こりゃどういう冗談ですか。
純粋に、「単純に似てただけ。偶然」と思うこともできます。でも、実は日本人はシベリア圏の遺伝子を少なからず持っており、その版図はロシアと重なると思うと、とたんに話がややこしくなります。
似たような話で、私の小学校時代の知り合いの話があります。
その子は、日本人でした。両親もふつうに薄い褐色(19世紀のイギリス人に言わすと、ミルクの多いカフェオレ色)の肌に、非常に黒っぽい茶色の髪と目の持ち主でした。
ところが、彼女ら姉妹は、どこからどう見ても「黒人」だったのです。
顔が丸くて、目がぱっちりとしており、鼻はやや丸っこく、唇が厚い。髪の毛は縮れていてチリチリしていて、ほっといたまま伸ばすといわゆる「アフロヘア」になりました。っていうか小学校当時はフツーに「アフロ」だった。
まあ、あんまりそういうことに言及するのは一般的に失礼だとされるので言いませんでしたが、当時から、「なんとなく黒人っぽい……」とは思ってました。でも、姉のほうがアメリカに留学したところ、誰からも日本人だと思ってもらえずに、差別されたしアメリカ人だとしか思ってもらえなくて苦労した、という話を聞いて、ある意味腑に落ちた。あ、やっぱり現地の人に混じってもアフリカ系だったのね、と。
父の話もあります。
父は外資系の仕事をやってるんですが、父の仕事仲間で、「いわゆる普通の日本人」にも関わらず、アジア系の人が集まる会議になると、なぜか韓国人が寄ってくるし、日本人からは英語でしか話しかけてもらえない……って人がいるそうで。
父曰く、「どこからどうみても典型的な韓国人」だそうで。いわゆる「在日」じゃなくて、日本人らしい。でも、肌がきれいで目が細く、えらが張っていて髪がまっすぐ、っていう、「どこからどうみても韓国人」っていう容姿をしているせいで、本場モノの韓国人にまで、同じ国の人と間違われる。
まあ、いかに人種とか民族って概念があいまいかーって話です。
日本人について言うなら、基本的には「かぎりなく交じり合っている二つの人種」がおもな集団を成しているらしいって話を聞きました。数千年単位で交じり合ってるから、もう、遺伝子的に純系のどっちかの人ってのは基本的には見つからないらしい。さらにそこにシルクロードを通ってきた中東系の遺伝子が混じったり、ロシアのほうの漁民をやってたスラブ系が混じったりして、いわゆる『日本人』ってもんが出来上がっているのらしいのでした。
知り合いがクローンについて調べていたので、ふと興味を持って調べてみたところ、アメリカなんかだと「黒人と白人の双子」ってのが生まれたこともあるらしいですね。
まあ遺伝子的にはあまり不思議の無い話で、ようするに、両親共に白人と黒人のハーフであり、子どもが二卵性の双子だった場合、シンプルにメンデルの遺伝学で説明しても、白人と黒人の双子ってのはありうるわけです。ただまあ、肌の色が極端に違うから、本人たちにとってはややこしい事態だろうなあ・・・・・・
逆に、家族みんなが黒人ですーっていう家系同士で結婚し、「どこからどうみても真っ白な子」ってのが生まれてしまい、大騒ぎになるっていう事態もまれにあるらしい。でもこれも遺伝学的に見ればあんまり不思議の無い話で、奴隷制のある時代からアメリカに住んでる『由緒正しいアフリカ系アメリカ人』だったら、どっかで一代くらい白人(アングロサクソン、もしくはラテン)の血が混じってても不思議はありません。っていうか、そう考えないとちょっと無理がある。で、それがうっかりポコッと出てきてしまうと、両親および親族がパニックになるような事態がおこるのです。
あ、ちなみに日本人の特徴として、いわゆる「蒙古斑」ってのがありますが、向こうだとそれがパニックの原因になることもあるそうです。
ようするに、フツーの他民族のベビーシッターをやとったり、事情に詳しくない医者のところに蒙古斑のある赤ん坊を連れて行ったところ、打撲傷と勘違いされて、児童虐待を疑われてしまうっていうね。これ、『先祖がえり』で日系とかのモンゴロイド系の特徴が出たとき、親は困惑するんじゃないだろうか。
しかし、肌の色は黒から白まで存在し、目の色は青から緑、黒まで、髪の色は白から漆黒、巻き毛から直毛まで存在すると思うと、人間ってのはずいぶんと外見的に多様な生き物です。
これ、単純に自然分布に任せてるからこの程度で済んでるけど、もしも人工的に純化を進める、あるいは遺伝子をいじって外見を変化させるようになったら、さらに面白い、っていうか個性的な容姿の人間が出てくるんじゃないだろうか……?
たとえば犬なんかは、チワワからグレートピレネーズまで遺伝子的には同じ生命体で、交雑が可能なわけです。原種である狼が見たら仰天するんじゃないだろうか。こいつらと俺ら、同じ生き物かよ! って。
もしもどっかに宇宙人がいて、人間をペット化した場合、なにか、どんどん面白い容姿のホモ・サピエンスが生まれてくるんじゃないだろうか?
そういう極端にSF的な仮説じゃなくても、もしも人間の遺伝子をいじって外見を操作することが一般的になった場合、人の見た目ってのはどんどん多様化していくんじゃないですかねぇ……
見た目の美醜ってのは、文化的な基準にかなり依存するため、「遺伝子操作の結果、みんな同じ顔」ってのはありえません。ファッションが多様化した国で、みんなが同じ服を着ないくらいありえない。逆に、自由に顔をいじれるようになった場合、みんな「個性化」に走るんじゃないかしら? 流行によってもぜんぜん違う容姿になるようになるだろうし、中には政治的な信条から自分の人種『らしい』と思われている容姿に特化する人々も出てくるだろうし。
極端に小柄なほうが美しい、と思う場合もあるだろうし、極端に太っているほうが、あるいは痩せているほうが美しいと思うこともあるでしょう。逆に、現在だと「醜い」とみなされる特徴が、個性としてもてはやされる場合もあるかもしれない。たとえば乱杭歯とか、禿とか、皺とかね。体毛の濃い・薄いとかもあるだろうし。
ペット化による純化、って言う風に考えると、いわゆる個人レベルの突然変異でしか見当たらない特徴が固定化されるっていう可能性もあります。生存に不利じゃないレベルで珍しいものとしては、陰毛が臀部から腹部まで生えているとか、男性のソプラノとか。逆に現在だと奇異に見られるものとして、無毛症とか、小人症、色素欠乏までが種として固定化されることを考えると…… 何か『家畜人ヤプー』みたいになってきたな(笑
いや、でもヒトって、いわゆる愛玩動物としては、けっこう優秀な素質を持ってると思いますよ?
外見の多様性(観賞用としての面白みがある)があり、群れの動物なので育て方によっては『なつく』可能性が高い。雑食性が高いし、適応力も強いため、異環境での飼育も簡単でしょう。基本的には水と空気、有機物さえあれば飼育可能だもんね。
強いて言えば、問題点といえば、家畜化するには寿命が長すぎることくらいでしょうか…… でも、これも相手との比較によるしなー。
でも、もしもホモ・サピエンスが家畜化された場合、どのような姿の『ヒト』となりうるのか……
たぶん、狼が犬を見て仰天するように、「いわゆる人間」としては奇異な姿の人々になってるでしょうが、純粋にSF的な興味として、けっこう気になります。
そもそも、『時間』ってなんなんだ、というのが昔からの私の疑問でありました。
なんで『時間』は未来へ向かっては進むのに、『過去』へ向かっては進まないんだろう? 『未来』も『過去』も同じくらい不確定なものなのに、『過去』には記憶があるというたったひとつの事実だけで、時間は『未来』へしか進まないものだと信じられている。
もしかしたら、時間はさかさまに進んでいるのかもしれない。
川が流れ、水にえぐられて渕が深くなっていく様は、フィルムを逆さまわしに見たとしたら、水が下から流れてきて、土を運んできているように見えるのかもしれない。
物理的に見たら、それは変なのかもしれないけれど、私にとってはかなりの疑問です。
私は腹が減ったからご飯を食べた→ご飯を体から次々と取り出していくことによって空腹になっていく
これが変なことであるとは、私にはちっとも思えない!
もしかしたら世の中には、さかさまの時間を生きている人たちがいるんじゃないのか? 彼らは一生の記憶について持ったまま生まれてきて、少しづつそれをすりへらし、辛いことや幸せなことを順番に体験し、最後は満足して母親の体の中に入り、そこで卵子になって回収される。そうしてその母親は、同じように少しづつ時間を逆さ戻しにしながら、生きていく。
時間枠上の川の流れの上にあたる『未来』についてのことは忘却しているけれど、彼らにとっては川の流れの下にあたる『過去』については彼らは知っている。そういう彼らをどうやって普通の人間と見分けられる? 彼らは『過去』について知っていて、『未来』については知らない。そして同じ『現在』という瞬間を生きている!
だいたい、彼らが『もうじき不幸になる』ということを知って哀しんだとしても、それは、通常の『過去→未来』という流れで生きている人々にとっては、『過去におこった不幸な出来事のことで哀しんでいるのだ』としか見えない。『さかさま人』は、そもそも、推定の上だと、普通の人間と何一つとしてかわらないのです。
いや、そもそも自分が『さかさま人』ではないと、どうやって証明するのよ?
私は『過去』については知っていて、『未来』について知らない。でも、それは私が『未来』に死をむかえ、すなわち『さかさま人』として誕生し、少しづつ自分の記憶をすり減らしながら、赤ん坊に戻り、誕生(つまり消滅)を迎えようとしている過程にいるってことを意味するだけかもしれない。「そうじゃない」ってどうやって証明すればいいのよ?
こういうことを言うと虚無主義者だと思われるかもしれないけど、そうじゃないのよ。
たとえば、本のページを開いてみる。そこには登場人物たちの悩みや苦しみ、ピンチや苦闘が描かれている。次のページをめくるとそれは報われあるいは報われていない。では、彼らがそうやって懸命に生きることは無意味だろうか? 違うでしょう。そうやって、『夢中で生きる』ということそのものが、そのキャラクターの存在意義そのものなんですから。
なにやら小説を書いていると、そういうことを考えずにはいられない。
そもそも、私が彼らを書いているのではなく、彼らが『自分たちを記述させるために』私を創造(想像)したんじゃないと言えるの。
私は物語の主人ではなく奴隷です。物語を私に奉仕させることは出来ない。私は物語に奉仕しています。
私はもしかしたら、自分の人生で一つの物語を書くっていう使命の下に生まれてきたのかもしれない。だとしたら私の未来は決まっている。でも、それが『努力した末に成功する未来』なのか、『努力した末に失敗する未来』なのか、あるいは『努力しない末に失敗する未来』なのかも分からない。
だったら、この瞬間が求めるように生きるしかないでしょう?
とか、いろいろと時間論について考えていたのでした。
……例の青いネコ型ロボットのために。(笑