オリジナルサイト日記
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そもそも、『時間』ってなんなんだ、というのが昔からの私の疑問でありました。
なんで『時間』は未来へ向かっては進むのに、『過去』へ向かっては進まないんだろう? 『未来』も『過去』も同じくらい不確定なものなのに、『過去』には記憶があるというたったひとつの事実だけで、時間は『未来』へしか進まないものだと信じられている。
もしかしたら、時間はさかさまに進んでいるのかもしれない。
川が流れ、水にえぐられて渕が深くなっていく様は、フィルムを逆さまわしに見たとしたら、水が下から流れてきて、土を運んできているように見えるのかもしれない。
物理的に見たら、それは変なのかもしれないけれど、私にとってはかなりの疑問です。
私は腹が減ったからご飯を食べた→ご飯を体から次々と取り出していくことによって空腹になっていく
これが変なことであるとは、私にはちっとも思えない!
もしかしたら世の中には、さかさまの時間を生きている人たちがいるんじゃないのか? 彼らは一生の記憶について持ったまま生まれてきて、少しづつそれをすりへらし、辛いことや幸せなことを順番に体験し、最後は満足して母親の体の中に入り、そこで卵子になって回収される。そうしてその母親は、同じように少しづつ時間を逆さ戻しにしながら、生きていく。
時間枠上の川の流れの上にあたる『未来』についてのことは忘却しているけれど、彼らにとっては川の流れの下にあたる『過去』については彼らは知っている。そういう彼らをどうやって普通の人間と見分けられる? 彼らは『過去』について知っていて、『未来』については知らない。そして同じ『現在』という瞬間を生きている!
だいたい、彼らが『もうじき不幸になる』ということを知って哀しんだとしても、それは、通常の『過去→未来』という流れで生きている人々にとっては、『過去におこった不幸な出来事のことで哀しんでいるのだ』としか見えない。『さかさま人』は、そもそも、推定の上だと、普通の人間と何一つとしてかわらないのです。
いや、そもそも自分が『さかさま人』ではないと、どうやって証明するのよ?
私は『過去』については知っていて、『未来』について知らない。でも、それは私が『未来』に死をむかえ、すなわち『さかさま人』として誕生し、少しづつ自分の記憶をすり減らしながら、赤ん坊に戻り、誕生(つまり消滅)を迎えようとしている過程にいるってことを意味するだけかもしれない。「そうじゃない」ってどうやって証明すればいいのよ?
こういうことを言うと虚無主義者だと思われるかもしれないけど、そうじゃないのよ。
たとえば、本のページを開いてみる。そこには登場人物たちの悩みや苦しみ、ピンチや苦闘が描かれている。次のページをめくるとそれは報われあるいは報われていない。では、彼らがそうやって懸命に生きることは無意味だろうか? 違うでしょう。そうやって、『夢中で生きる』ということそのものが、そのキャラクターの存在意義そのものなんですから。
なにやら小説を書いていると、そういうことを考えずにはいられない。
そもそも、私が彼らを書いているのではなく、彼らが『自分たちを記述させるために』私を創造(想像)したんじゃないと言えるの。
私は物語の主人ではなく奴隷です。物語を私に奉仕させることは出来ない。私は物語に奉仕しています。
私はもしかしたら、自分の人生で一つの物語を書くっていう使命の下に生まれてきたのかもしれない。だとしたら私の未来は決まっている。でも、それが『努力した末に成功する未来』なのか、『努力した末に失敗する未来』なのか、あるいは『努力しない末に失敗する未来』なのかも分からない。
だったら、この瞬間が求めるように生きるしかないでしょう?
とか、いろいろと時間論について考えていたのでした。
……例の青いネコ型ロボットのために。(笑
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