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オリジナルサイト日記
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鈍くなった自分の精神が哀しい今日この頃。
代わりに目移りしにくくなったせいで、持久力のいる作業がちょっと得意になった気もしますが。

ここ最近でいちばんすごいと思った台詞回しは、『この世界の片隅に』のラストでしょうか…
こうの史緒氏の、なんていうか、誰のモノローグかもよく分からないけれども、誰の視点ともなく流れる景色と共に台詞が騙られるところが好き。

わたしはほぼ純正の都心育ち(横浜在住渋谷通学)です。で、この世界屈指のごったまぜの大都会で育ったことに何の後悔もしていないのですが、たったひとつ寂しいことがあるとしたら、『方言』をひとつも身に付けられなかったことがある。
わたしの日本語は全部フィルターがかかってて、なんつうか、ろ過されちゃってて色も味も臭みもない。紙面やテレビにのっかってもまったく問題ない純正の『日本語』。そこが実にあじけなくて寂しいです。
寺山修司の青森弁、こうの史緒の広島弁、遠藤周作の九州のことば、みんなちゃんと、「頭の中の表記不可能な言葉」を、紙の上に翻訳したというプライベートな魅力がある。
うらやましいなーいいなー
わたしもああいう言葉が欲しかったなー(´・ω・`)


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二次サイトのことについて。
自分でやっとちょっと整理が付いてきた… かなあ。

やっぱりオタク系クリエイターのみなさんはいろいろ考えていたようで、その手の評論を読みながら自分に置き換えて、いろいろと考えておりました。とりあえず参考になったのはSFマガジンで連載中の《ゼロ世紀の想像力》と、《オタクコミュニスト超絶評論》かな!
(《オタクコミュニスト~》はWebでも読めます というかこちらが本家 http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/menu.html

小説を書く人とかが、「自己表現ってのは、自分自身をさらけだす公開ストリップである」という言いかたをよくしているのですが、今回、やっとそれが身に沁みました。
ようするに私は、自分自身の性根のものすごくダークな部分に今回ぶちあたって、びっくりして、逃げ出してしまったのです。

以前からぼんやりと思っていたのですが、二次創作作品ってのは、オリジナルに比べて、「書き手の無意識な欲望」があらわれやすいよな、と思います。私だけかと思ってたらよしながふみに関しても同じことを言ってた人がいたのでやっぱそうなのかなと思った。
よしながふみに関してはうろおぼえなんですが、彼女はオリジナル・商業ベースだと、非常に自覚的で求道的な作品を書いている。まあ、オタク受けといっちゃったらいけないのですが、評論の人がノッて、それをどうこういいたくなるようなものすごく「自覚的に・思索的に」かかれたものを出してると思います。椎名林檎の「自作自演的」も近いかもしれない。
でも、私はよしながふみの同人作品を見たことが無いのですが(そしてこれは何回強調しても足りないことだと思うけれども)、スラダンでやってた同人に関して、よしながふみ本人だか、周りの方だかが、どっかでものすごいどんづまりにつきあたってた(か、もしくは現在進行でつきあたってるか)と、言ってたのです。
ようするに、受のコがなんかの理由で攻のコの身近をはなれる(旅行とかささいで日常的な理由で)、そのせいで攻のコが疑心暗鬼・不安に陥って、受のコに対して暴力を働く。そこで受のコは攻のコのものすごく微妙な感情のぶれとか不安をその暴力から感じ取って、「ごめんね」となる。
で、ソレに対してコメントが、「これって、ただのDV男と、それと離れられない共依存女の話じゃん?」と。

これはすごく怖い。ものすごく怖い。
DV云々に対しては私もまったく同じ意見だけれども、《腐女子》として、ソレに対して共感してしまう、そして、自分も同じものを書いてしまうだろう、という気がするだけに、半端なく怖い。つまりこれって、自分のなかのどっかにも、そういう回路があるってことを知っちゃうことだと思うからです。《DV男と共依存女》っていうモデルに惹かれちゃう、何重かの厳重な封印の向こうに、そういう状況を許容する・愛する・快感を感じる自分がいる、っていう事実を突きつけられることだからだと思う。

神経過敏だとか自意識過剰だとか言われたらその通りなんですが…

《オタクコミュニスト》では、いちばんグサっと話は、《ガンスリンガー・ガール》に対する批判の話でした。詳細は本家様で見ていただくとして、一言で言うと、「こんなひどいもの・こんなむごたらしいものに、お前らは本当に萌えるのか」っていう一言だったのですね。
《萌え》って言葉に包んだ非常にむごたらしい・許しがたい・ちょっと違う形になればあきらかに社会的に許容できないものが、かわいらしい絵柄のヘンリエッタやリコといった美少女に演じられることで、あきらかに欲望の対象になっちゃう。そんで私はまちがいなく《ガンスリンガー・ガール》が好きです。
私の中には、ものすごく人非人で、むごたらしいことを愛するような心があるんだと思う。

で、これは二次創作でも言える話で、同人作品ってのは洗練されていない・原石の形であるだけに、ときどきこっちもぎょっとするような形で、その人の《むごたらしさ》が露出してる… と最近おもうのです。
今まで出会った中だと、強烈に、生理的嫌悪感を感じた作品ってのがいくつもありました。作者さん本人を知ってたこともあるし、知らない人だったこともあるし。でもそういう怖い作品を書いてる人本人がほんとうにヤバくて怖い人だったということはほぼ無い。逆に、本人はかなり《ヤバい》って感じを出してる人が、こっちの心のでこぼこにフィットしちゃうようなものを書いてて、びっくりしたこともある。
同人の場合は、「私だけ愛されたい」「私を愛さないものは/私の愛するものを憎むものは、それだけの理由で破滅してもかまわない」「私は私の敵を、全力を持って、憎み、軽蔑する」っていうメッセージを出してる作品があって、そういうので、すごくぎょっとする。作者さんがたぶん自覚してないノーマルで日常的な作品でそういうトゲがざくっとささるとダメージは倍増です。
「お前のためなら世界が滅んでも構わない」っていう台詞は、特に女性向けだと、頻出するワードです。私はそういうのが怖いと思ってたし、嫌いだと公言していた。それがなんていうか、「マナー」だと思ってたし、常識的で良識的なミドルクラスとしては、それ以外の答えは、なんていうかふさわしくないので。
でも、そういうものに繋がっちゃう瞬間ってのは、たしかにあるってことを、今回、手痛いしっぺ返しで喰らった感じです。

すでに下げちゃってるのでいうのもアレなんですが、GX二次パラレルの《仇》っていうタイトルの作品が、自分にとっての地雷になりました。地雷というよりむしろ時限爆弾って言ったほうがいいかもしれない。
読んでない人のため説明すると、ようするにシンプルな対立構造の話で、地球は荒廃しきってしまい、人類は二つに分かれている。月および衛星軌道のコロニー群に居住してる「ふつう」の人々。それと、本来は環境汚染や気候変動で人類が住めないとされてる地球に生存してる「異郷」の人々。
「ふつう」の人々は通称をハイランダー、「異郷」の人々はマージナルと呼ばれてますが、それはお互いがお互いに対してつけてる呼称であって、自称ではありません。
マージナルの間では、生き残るための様々な非道徳や悪徳が蔓延しています。たとえば誰かを奴隷化するための遺伝子改造だったりして、この作品でも、戦闘用に多くの麻薬でドーピングされそれによって寿命が短いミュータント、彼らに臓器を提供するためにドナーとして調整されているミュータント、さらにはもっと簡単に、多くの病気や怪我などの危険にさらされているほかの「マージナル」のために臓器を提供し、性的な搾取の対象にもなっている、というミュータントも存在します。
で、ハイランダーたちは、マージナルの間のそういう悪徳をほとんど知らない。ごくごく一部の知識階級はそれを知っていますが、大半のハイランダーは、「地球を不当に占拠して、そういう悪いことをしている人たちがいる」という認識だった。
ハイランダーの間だと、「地球には人間は住んでない。住んでいるとしたらそれは本来の《人間の住処》である場所から、犯罪行為のために地球へ行っている人々であって、彼らは自分の意思で仲間に加われるのに、それをやっていない」という認識が大勢を占めています。で、それにしたがって、地球環境に人為的に手を加えて、ふたたびハイランダーが入植可能になるための、環境改造の計画が公然と進められている。
《我々は、人間以外の全ての生き物に、母なる地球を返してやらなければならない》という美名のもとで。
でも、地球の現在の環境に適応しているマージナルたちは、ほんとは、その計画によって地球に居住できなくなれば、死ぬしかない。特にミュータントたちは知的能力・身体能力に劣っているから月・衛星軌道に適応できないだけでなく、遺伝子改造によるアレルギーや体質変化によって、そもそも、《汚染された地球環境》じゃないと生きていけないのです。
そんで、そんなミュータントの一人が、地球環境の改変計画の中核スタッフである一人の少年に逢いに行かされる、というのがその話の概要でした。
「なぜ、私たちは、殺されないといけないのですか?」「私たちは、ただそこに生きているということも、ゆるされないのですか?」というメッセージを持たされて。

まあ、ここまでならいいですよ。
でも私はけっこう何も考えないでオチまで書いて、かなり、どん底に落ち込みました。
ふたなりで、ネコミミで、知的障害があり、病弱な、いたいけなミュータント、
…というものに《萌えている》自分に気づかされてしまい、しかも、その世界は《その構造を支えるために》作られてるっていう事実に、なんか、ものすごく気づいてしまったからです。
結局のところ、そういう現状に対して悲鳴を上げて、抗議をしようとしてるのは、作中人物であり、責められる相手ってのは《作者である私》じゃないかと。そこまで外道な、人道にもとることをやってて、そんなもんで萌えるのか、そんなひどいものがお前は好きなのか、という提言をキャラクターが作中で大声で叫び出して、その《叫び》に、イチバンに耐えられなくなってしまったのが、作者自身である私だったというオチだったのです。
結局、あれを掲載したら、読んだ人は《萌えて》しまったと思います。私は自分の作品の構成テクニックをそそぎこんでそういう構造を作っていたのだし、そもそもは《いたいけなミュータント》っていう存在自体がそういうトラップになっている。
ある程度の人は本能的に嫌悪感を感じて逃げただろうし、もっと分析的な読みをする人はそこの構造に私の仕掛けた(無意識の)トラップに気づいて苦笑いしたかもしんない。でも実は全部無意識だった。なのに、作中人物は最後に悲鳴を(あるいは絶叫を?)あげて、こっちに抗議してきた。
ついでに、今回はラストハンマーで、こういうニュースを見ちゃった。
《市場テロは知的障害ある女性につけた爆弾》
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080202-00000016-yom-int
そんで、私はそれに耐えられなかった。

んで、そういうことを《無意識に》やってしまう自分に、なんか今回、むちゃくちゃ絶望したのでした。
…サイトを発作的にたたむほどに(苦笑)

でも自作から逃げ出すってのは、自分が《作者としての覚悟》が足りなかったからなのかなー、と今回ちょっと思いました。
結局はそこで私がやることだったのは、そういうことをやっちゃった以上、きちんとたたむことだったんじゃね? と今は思います。「作中人物」「読者」「作者」ってのはどっかで力関係を曲げちゃいけない均衡の関係にあるべきで、作者は自分の主張のために作中人物を利用してはいけない、というか、してもいいんだけど、それをやった場合は「作中人物」が血まみれのナイフでこっちの顔面をえぐりとられるくらいの覚悟はしてないと駄目だと思う。あるいはこっちに振り下ろされた一撃で、キーボードを打つ手を叩き潰されるぐらいの覚悟は。
今はそこまでやる実力もないし、覚悟もないし、気力も無い。私はキーを打つ手に突き立てられた一撃にたえかねて、手を引っ込めてしまったということです。

小説書くのは怖いとマジで思います。
小説を書いた性で人が死んだり狂ったりするのってのは、ほんとにあるのかもしれない。「死にそうな」「狂いそうな」人が書いた小説、ってもんでなく、「書いた人を殺す小説」「書いた人を狂わせる小説」ってもんがほんとにあるのかもしれない。
それは絶対に、ある程度自業自得とはいえ…

ここらへんはちょっと自分で覚悟を決めないといけないと思いました。正直をいうと、今回は、ほんとうに怖かった。自分が怖かったし、何も考えずにそこらへんを暴走させちゃう自分の《小説脳》ってもんも怖かった。
これからどうするかはもうちょっとよく考えようと思います。でも、今回のダメージだけは、忘れないようにしたかったので、あえて書きました。

とりあえず、読んでくださった方、読めなかった方、ともにごめんなさい。
そんで十代にもほんとごめんなさい。私が悪かった。

まだ次の覚悟はできないですが、今度はもうちょっとはましな、少なくとも逃げない小説を書きたいと思います。

すいませんでした。

なんか唐突に撤収しました。ごめん、たぶんあんまり復帰する気もないですわ… 再開した時には作品数が半分以下くらいになってるんだろうなあ。

たまに、いきなりに、自分の書いてるものの何もかもがイヤになることがあります。
文章とか、構成力の無さとか、嫌なものはいくらでもあるんですけれども、その中でもいちばんイヤなのは、たぶん、作品の根底あたりに横たわってる自分自身の根性みたいなもの。
弱い人間ばっかり、駄目な人間ばっかり書いて、それが、すごくいやになる瞬間があるのです。昔サイバーパンクSFを批判した作家が、「彼らが書いている人物は人間のクズばかりだ」と言ったという話を聞いたことがあるのですが、それとまったく同じ気分になる。
私は、原作においてはもっと正しく、強く、そして前向きな人たちを、人間のクズに貶めてるだけなんじゃあないかって。
オリジナルだと、登場人物はみんな《うちのコ》だから別にいいの。どんなに駄目でもクズでもしかたない。私のコだから、私にある程度似ちゃうのは不可抗力です。もっと別の人に書いてもらえればしあわせになれたんだろうにね、と彼らに申し訳なくなることはいくらだってあるのだけれど。
でも二次だと駄目だ。
あのコたちはうちのコじゃない。もっとちゃんとした場所にいれば、もっと、きちんと生きられるはずのコたちなんだ。
そう思うと自分の作品がどうしようもなくはずかしい気分になり、何もかもを廃棄したくなってしまうのです。

そう思っちゃったら潮時…とまではいかないけれども、同じことを続けてはいられないのかなとふと思います。
私は私の書くものがすごく嫌いなのです。吐き気のする、クズみたいな、クソみたいなもんばっかりだと思う。でもそれが私の一部であることは間違いないから、書かないわけにはいかない。お友だちに言われてしまったけれど、私は、「書かないと死んじゃうマグロみたいなかんじの生き物」だからです。
でもいくら自分の一部だからって、こんなクソッタレなもんを愛せるわけがないです。だからせめて、せいいっぱい、作品としてのクオリティを上げる。人間の死体だってせめて肥料くらいになれる。蛆虫だってモノが朽ちて何かのためになるほかの何かになる役に立ってる。そういう気持ちで。

でも、そんなもんに、私自身以外の作品を、付き合わせるわけにはいかないんだ。

なんかすごくダークな気持ち…
ウツ日記ですいません。でも、真面目にそういう気持ちだったのですよ。こういうネガティブ創作者もアリっちゃアリだよねと自分をなぐさめごまかし甘やかしながら日々頑張ってます。うちは、そういうサイトだったのですよ。読んでくださる方には、本当にごめんなさい…


最近、というか、ここらへんずっとの悩み。
「自分にとってぜひ書きたいキャラクター」と、「魅力的なキャラクター」の乖離…

以前、友人から、「由仁子さんの書く小説は、キャラクターに魅力が無い」といわれて以来、どうにも気になって仕方がありません。
やっぱり、書くからには、読んでいて面白い小説が書きたい。基本的に体質がエンターテイメントなので、どんな小説を書いていても、気になるのは「それが面白いかどうか」です。
でも、ひとつ根本的なところで、そんな目的と食い違うことがある。
私が本当に書きたいキャラクターってのは、ぜんぜん、一般的でも、魅力的でもないってことです。

私が本当に書きたいのは、たぶん、「背中にチャックが付いた子ども」なんだと思います。
見た目は子ども… どんなにいっても、せいぜいが中学生くらいの子ども。
でも、中身は違う。
自分でも触れない、開けられない背中のところにチャックが付いていて、その中には何か、人間とは違うものが入っている。
あくまで「背中にチャック」ってのはたとえ話なので、実際についているってわけじゃないです。
でも、人間に見えるけれども、本当は違う、っていう孤独感と、背中のチャックが開いてしまったら誰からも石を投げられ追放される、という絶望的な恐怖感ってものを抱いた、ちいさな子ども、ってのがすごく自分の中にテーマとして、あります。

彼らは、言うまでもなく、アウトサイダーであり、そして、《化け物》です。
古い言葉でいうと《遊星からの物体X》であり、《光る眼》であり、《ボディ・スナッチャー》です。パラノイアめいた妄想が思い浮かべる化け物を、その、化け物の側から逆に描写した姿に過ぎない。
どんなに可憐でいたいけに見えても、それが本質になったらいけない… チャックの中身が、本当におそろしい化け物でないと、私のツボにははまらない。
鏡をみて絶望をしても、人間をとりつくろうために必死で努力をしていても、本質は化け物であり、おそろしい害悪であり、誰にとっても恐怖の象徴となりうるようなものじゃないといけない。

でも… ねえ、それって、敵キャラの属性です。(苦笑)
《化け物》ってのは、なかなか主人公にするのがむつかしい。無論、それを見事にやってのけている作品もあります。ラヴクラフトの諸作品とか、あるいは、漫画だけど『ヘルタースケルター』とか、『蔵六の奇病』とか。
でも、もっと言うと、私が書きたいのは『フランケンシュタイン』であり、『のろいの館』『あかんぼう少女』のタマミなのです。
醜く、愛されず、誰からも孤立した存在が、たったひとりぽっちで、勝利の存在しないサバイバルを、死に物狂いで生き延びる…
逆ゾンビですね。ゾンビだらけになった世界で人間がサバイバルするのは普通のホラーですが、人間しかいない世界で、一匹だけのゾンビが逃げ惑うんだったら、それはゾンビの側から見たら、立派なホラーになるんじゃないかしら? もっというと、ホラー以外の何かだとして、どんなものになるのか?

『暗黒童話』は、かなり明確に、「背中にチャックの付いた子ども」がテーマの作品です。
『赤ずきん』の赤ずきんもそうだし、まだ登場していないあのシリーズの真の主役も、背中にチャックがくっついた、ひとりぼっちの子どもです。
でも、あいつらは化け物です。赤ずきんはまだチャックが自分についてるってことに気づいてなかった間のお話だった。でも、主役の子はどうなるんだろう? きっと魅力的じゃないと思います。
っていうか、彼が、誰からも同情される可哀想な醜いアヒルの子になってしまったら、私の目的は、達成されなかったってことになってしまうわけです。

このへん、ダブルスタンダードっていうか、ジレンマだなあ~。
解決できない問題です。かなり、悩ましいです。


暗黒童話”白雪姫”を更新しました。

改めまして読んでみると、まあ、分かりにくい小説ですねえ……
宮廷陰謀劇なんぞを書こうと思うと、人が増えるのが難点なんだなあとしみじみと思いました。
でも、この作品はキャラクターについてネタバレすると、とたんに作品のオチが分かってしまう種類の話なので、下手にキャラクター紹介も書けないのが悩ましいところ。
ただ、ドイツ語風のキャラクター名を採用したのはまちがっていた気がします… な、長い…

いちおう、いまのところ覚えていないと駄目な名前は

白雪姫 シュネイゼ・ブランシュ・フォン・ブランシュタイン
お后様 アデレード・マリア・シュバインノルン・フォン・ブランシュタイン
白雪姫の実母 ゾフィー・クレティア・フォン・ブランシュタイン
王様 ローラント (…フルネームが無い)
侍女 ユーリア・ベルトラント
謎の剣士(笑) カスパール・ハウザー
謎の…? シュヴァンヴァイス卿

うわっ、多っ…orz
ちなみに、王族は《ブランシュタイン家》で、宰相が《シュバインノルン家》でございます。
裏エピソードである『白鷲の聖戦』は、まだ、本筋に絡まないのですが、いつかそっちも細かく記述しないと駄目かもしれません。
現時点で出ている限りだと、

リヒテルビン王国の国王、”白鷲王”シーグルドが挙兵
当時の最強国、ヴェルトール皇国をはじめとする8つの国を、8年のうちに倒し、併合。
しかし、シーグルドは29歳にして謎の死を遂げる

ってのが、おおまかなあらましでございます。
現リヒテルビンはブランシュタインの隣国にあたりますが、間に山脈などの天然の要害を持つため、戦争をするのはあんまり簡単じゃないみたい。
ちなみにブランシュタインのモデルは、明確に帝政ロシアです(笑

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