オリジナルサイト日記
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”深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない”
《明石海人 ”白描”より》
せんだってのいろいろに、反応を下さった方々、ありがとうございました。
なさけない弱音だったので、お叱りを受けること覚悟だったのに、皆様優しすぎます…
ここ最近は拍手返信はしない主義だったのですが、今回はちょっと回答させていただきます。いろいろ、こちらの思ったことです。
2/4 自分がたりしちゃいがちなので、自粛していたのですが>
いろいろとご意見ありがとうございました。た、ただ、途中から後ろが切れていました… へたれな拍手でスイマセン、また後で続きをいただけると嬉しいです(汗
《勢い》ってものは罪なもので、やっぱり、自分はオリジナルと二次の途中に挟まってるな、という中途半端さは感じます。やっぱり自分の主義主張を圧して書くとキャラクターが二次からずれていってしまうし。
ただ、二次創作をやっていて楽しいのは、そこらへんの《自分の作品性》と《原作のキャラクター性》との軋轢、というか対話というか、そこらへんの違和感だよなあ、とも思います。
自分はオリジだと「キャラクター性のうすさ」というものに常々悩んでいたのですが、やっぱり、二次で原典のあるコたちのお話を書いていると、「私が書きたいプロット」と「キャラクターが望む思惑」ってものがやっぱりずれる、そこらへんの《ずれ》を踏み台にして、ジャンルを移るたびにいろいろと勉強させてもらってきたな、という気もしています。
ただ、そこの綱渡りをうっかり踏み外すと、いろいろと困ったことになるのですよね… モノ書きは一作一作が本番だって忘れちゃだめだなーとつくづくおもいます。
二次創作において「何か違う」って思った瞬間衝動的に消去される管理人さんって結構多いですが >
そうですよね! これは思いますマジで。特にWebだとログが残らないから完全抹消できてしまう。これっていいことのよーな、書き手を甘やかしているよーな、複雑だよなーと思います(苦笑
私の場合は「自分で納得がいかなかったから」という理由での削除がほとんどです。コメディとかほのぼのならともかく、ちょっとキャラクターの心情を書くような話になると、かなりの勢いで作品がオリジナル化してしまうので…
「悲劇」っていう概念も好き好きで、自分は、ただのカタルシスを得るためだけの悲劇ってのはあんまりなーと思います。ちょっといただいたメッセージとも関連するのですが、二次に対しての自分の信念はひとつだけで、「キャラクターに対して誠実であること」だけです。やっぱり二次のキャラは他所様の子ですから、借りているからには、たとえそれが悲劇だろーがホラーだろうがポルノだろうが、「そのキャラに対する誠実さ」を失っちゃだめだよなと思います。…GX的には、「リスペクト」とでもゆうべきですかね(笑
悲劇はきらいじゃないですが、そこに政治性とかの繊細な問題がかかってくると、鈍感である、というのは下手である以上に許されないことだと思います。安手の恋愛悲劇ならともかく、もっとイデオロギーな問題がかかわってくると話がとたんに難しくなる。そこらへんが難しかったよなー、と今回しみじみ思いました。
とーこ様>
今回もお世話になり、ありがとうございました。普段お世話になっている分、ご心配をおかけしてしまい、ほんとに申し訳ありませんでした。とーこ様からいただけたご感想は嬉しかったですよ~! どうか、そんな心配はなさらないでください。
二次だから読めた、と言っていただけるのはとても嬉しいです。反面複雑でもあるのですが(笑 やっぱり、ああいう二次には魔力がありますからね。なんというか、オリジナルは舞台劇だったら、二次はテレビのドラマって気がします。見てくださる方の母数が増える分、俳優さんたちもそれぞれのキャリアや俳優性ってものを気にしないといけない。自分の身内であるオリジとは違う、という感じ。
「伝える」という言葉に甘えて言わせていただくと、今回、自分はちょっとだけ、最近よく読んでいる紛争問題や民族問題についてを絡めておりました。無意識というにはちょっとやりすぎだったと思うので、確信犯として… ですが。
もしも似たようなテーマを扱うとしたら、今度はもうちょっとしっかり、屋台骨をしっかりした作品を書いてみたいと思います。そのときにはきっととーこ様にも読んでいただきたいと思っています。ありがとうございました。
2/5 ミチヅキ様>
お久しぶりです! 20万記念チャットではお世話になりました。
ミチヅキ様にはうちのカスパールも書いていただいていたのに、もう、反応遅くってすいません… なんてかわいらしい、こんなんじゃいじめられないじゃん! ともだえておりましたよ(笑
ミチヅキ様にはありがたいお言葉をありがとうございます。僭越ながら、ミチヅキ様も私と同じダーク・ゴシック方面の作風なのですよね。オリジナルだと何も考えずにホラー・ダークファンタジーで突き通してきただけに、今回のどんづまりはけっこうショックでした(苦笑
でも、やっぱり地の部分であるオリジナルをそういう風に言っていただけると励みになります。私はパンクが好きですが、ただ形だけまねるファッションパンクではなく、やっぱり、骨の部分で「パンク」じゃないとだめだなーと思いました。
ただ怒鳴るだけじゃなくて、相手の反応をちゃんと聞きながら、それでも、「何故?」「どうして?」と問い続ける心というか…
なんか辛気臭い話にお付き合いくださって、ありがとうございました。嬉しかったです。これからも、どうぞよろしくおねがいします。
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二次サイトのことについて。
自分でやっとちょっと整理が付いてきた… かなあ。
やっぱりオタク系クリエイターのみなさんはいろいろ考えていたようで、その手の評論を読みながら自分に置き換えて、いろいろと考えておりました。とりあえず参考になったのはSFマガジンで連載中の《ゼロ世紀の想像力》と、《オタクコミュニスト超絶評論》かな!
(《オタクコミュニスト~》はWebでも読めます というかこちらが本家 http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/menu.html》
小説を書く人とかが、「自己表現ってのは、自分自身をさらけだす公開ストリップである」という言いかたをよくしているのですが、今回、やっとそれが身に沁みました。
ようするに私は、自分自身の性根のものすごくダークな部分に今回ぶちあたって、びっくりして、逃げ出してしまったのです。
以前からぼんやりと思っていたのですが、二次創作作品ってのは、オリジナルに比べて、「書き手の無意識な欲望」があらわれやすいよな、と思います。私だけかと思ってたらよしながふみに関しても同じことを言ってた人がいたのでやっぱそうなのかなと思った。
よしながふみに関してはうろおぼえなんですが、彼女はオリジナル・商業ベースだと、非常に自覚的で求道的な作品を書いている。まあ、オタク受けといっちゃったらいけないのですが、評論の人がノッて、それをどうこういいたくなるようなものすごく「自覚的に・思索的に」かかれたものを出してると思います。椎名林檎の「自作自演的」も近いかもしれない。
でも、私はよしながふみの同人作品を見たことが無いのですが(そしてこれは何回強調しても足りないことだと思うけれども)、スラダンでやってた同人に関して、よしながふみ本人だか、周りの方だかが、どっかでものすごいどんづまりにつきあたってた(か、もしくは現在進行でつきあたってるか)と、言ってたのです。
ようするに、受のコがなんかの理由で攻のコの身近をはなれる(旅行とかささいで日常的な理由で)、そのせいで攻のコが疑心暗鬼・不安に陥って、受のコに対して暴力を働く。そこで受のコは攻のコのものすごく微妙な感情のぶれとか不安をその暴力から感じ取って、「ごめんね」となる。
で、ソレに対してコメントが、「これって、ただのDV男と、それと離れられない共依存女の話じゃん?」と。
これはすごく怖い。ものすごく怖い。
DV云々に対しては私もまったく同じ意見だけれども、《腐女子》として、ソレに対して共感してしまう、そして、自分も同じものを書いてしまうだろう、という気がするだけに、半端なく怖い。つまりこれって、自分のなかのどっかにも、そういう回路があるってことを知っちゃうことだと思うからです。《DV男と共依存女》っていうモデルに惹かれちゃう、何重かの厳重な封印の向こうに、そういう状況を許容する・愛する・快感を感じる自分がいる、っていう事実を突きつけられることだからだと思う。
神経過敏だとか自意識過剰だとか言われたらその通りなんですが…
《オタクコミュニスト》では、いちばんグサっと話は、《ガンスリンガー・ガール》に対する批判の話でした。詳細は本家様で見ていただくとして、一言で言うと、「こんなひどいもの・こんなむごたらしいものに、お前らは本当に萌えるのか」っていう一言だったのですね。
《萌え》って言葉に包んだ非常にむごたらしい・許しがたい・ちょっと違う形になればあきらかに社会的に許容できないものが、かわいらしい絵柄のヘンリエッタやリコといった美少女に演じられることで、あきらかに欲望の対象になっちゃう。そんで私はまちがいなく《ガンスリンガー・ガール》が好きです。
私の中には、ものすごく人非人で、むごたらしいことを愛するような心があるんだと思う。
で、これは二次創作でも言える話で、同人作品ってのは洗練されていない・原石の形であるだけに、ときどきこっちもぎょっとするような形で、その人の《むごたらしさ》が露出してる… と最近おもうのです。
今まで出会った中だと、強烈に、生理的嫌悪感を感じた作品ってのがいくつもありました。作者さん本人を知ってたこともあるし、知らない人だったこともあるし。でもそういう怖い作品を書いてる人本人がほんとうにヤバくて怖い人だったということはほぼ無い。逆に、本人はかなり《ヤバい》って感じを出してる人が、こっちの心のでこぼこにフィットしちゃうようなものを書いてて、びっくりしたこともある。
同人の場合は、「私だけ愛されたい」「私を愛さないものは/私の愛するものを憎むものは、それだけの理由で破滅してもかまわない」「私は私の敵を、全力を持って、憎み、軽蔑する」っていうメッセージを出してる作品があって、そういうので、すごくぎょっとする。作者さんがたぶん自覚してないノーマルで日常的な作品でそういうトゲがざくっとささるとダメージは倍増です。
「お前のためなら世界が滅んでも構わない」っていう台詞は、特に女性向けだと、頻出するワードです。私はそういうのが怖いと思ってたし、嫌いだと公言していた。それがなんていうか、「マナー」だと思ってたし、常識的で良識的なミドルクラスとしては、それ以外の答えは、なんていうかふさわしくないので。
でも、そういうものに繋がっちゃう瞬間ってのは、たしかにあるってことを、今回、手痛いしっぺ返しで喰らった感じです。
すでに下げちゃってるのでいうのもアレなんですが、GX二次パラレルの《仇》っていうタイトルの作品が、自分にとっての地雷になりました。地雷というよりむしろ時限爆弾って言ったほうがいいかもしれない。
読んでない人のため説明すると、ようするにシンプルな対立構造の話で、地球は荒廃しきってしまい、人類は二つに分かれている。月および衛星軌道のコロニー群に居住してる「ふつう」の人々。それと、本来は環境汚染や気候変動で人類が住めないとされてる地球に生存してる「異郷」の人々。
「ふつう」の人々は通称をハイランダー、「異郷」の人々はマージナルと呼ばれてますが、それはお互いがお互いに対してつけてる呼称であって、自称ではありません。
マージナルの間では、生き残るための様々な非道徳や悪徳が蔓延しています。たとえば誰かを奴隷化するための遺伝子改造だったりして、この作品でも、戦闘用に多くの麻薬でドーピングされそれによって寿命が短いミュータント、彼らに臓器を提供するためにドナーとして調整されているミュータント、さらにはもっと簡単に、多くの病気や怪我などの危険にさらされているほかの「マージナル」のために臓器を提供し、性的な搾取の対象にもなっている、というミュータントも存在します。
で、ハイランダーたちは、マージナルの間のそういう悪徳をほとんど知らない。ごくごく一部の知識階級はそれを知っていますが、大半のハイランダーは、「地球を不当に占拠して、そういう悪いことをしている人たちがいる」という認識だった。
ハイランダーの間だと、「地球には人間は住んでない。住んでいるとしたらそれは本来の《人間の住処》である場所から、犯罪行為のために地球へ行っている人々であって、彼らは自分の意思で仲間に加われるのに、それをやっていない」という認識が大勢を占めています。で、それにしたがって、地球環境に人為的に手を加えて、ふたたびハイランダーが入植可能になるための、環境改造の計画が公然と進められている。
《我々は、人間以外の全ての生き物に、母なる地球を返してやらなければならない》という美名のもとで。
でも、地球の現在の環境に適応しているマージナルたちは、ほんとは、その計画によって地球に居住できなくなれば、死ぬしかない。特にミュータントたちは知的能力・身体能力に劣っているから月・衛星軌道に適応できないだけでなく、遺伝子改造によるアレルギーや体質変化によって、そもそも、《汚染された地球環境》じゃないと生きていけないのです。
そんで、そんなミュータントの一人が、地球環境の改変計画の中核スタッフである一人の少年に逢いに行かされる、というのがその話の概要でした。
「なぜ、私たちは、殺されないといけないのですか?」「私たちは、ただそこに生きているということも、ゆるされないのですか?」というメッセージを持たされて。
まあ、ここまでならいいですよ。
でも私はけっこう何も考えないでオチまで書いて、かなり、どん底に落ち込みました。
ふたなりで、ネコミミで、知的障害があり、病弱な、いたいけなミュータント、
…というものに《萌えている》自分に気づかされてしまい、しかも、その世界は《その構造を支えるために》作られてるっていう事実に、なんか、ものすごく気づいてしまったからです。
結局のところ、そういう現状に対して悲鳴を上げて、抗議をしようとしてるのは、作中人物であり、責められる相手ってのは《作者である私》じゃないかと。そこまで外道な、人道にもとることをやってて、そんなもんで萌えるのか、そんなひどいものがお前は好きなのか、という提言をキャラクターが作中で大声で叫び出して、その《叫び》に、イチバンに耐えられなくなってしまったのが、作者自身である私だったというオチだったのです。
結局、あれを掲載したら、読んだ人は《萌えて》しまったと思います。私は自分の作品の構成テクニックをそそぎこんでそういう構造を作っていたのだし、そもそもは《いたいけなミュータント》っていう存在自体がそういうトラップになっている。
ある程度の人は本能的に嫌悪感を感じて逃げただろうし、もっと分析的な読みをする人はそこの構造に私の仕掛けた(無意識の)トラップに気づいて苦笑いしたかもしんない。でも実は全部無意識だった。なのに、作中人物は最後に悲鳴を(あるいは絶叫を?)あげて、こっちに抗議してきた。
ついでに、今回はラストハンマーで、こういうニュースを見ちゃった。
《市場テロは知的障害ある女性につけた爆弾》
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080202-00000016-yom-int
そんで、私はそれに耐えられなかった。
んで、そういうことを《無意識に》やってしまう自分に、なんか今回、むちゃくちゃ絶望したのでした。
…サイトを発作的にたたむほどに(苦笑)
でも自作から逃げ出すってのは、自分が《作者としての覚悟》が足りなかったからなのかなー、と今回ちょっと思いました。
結局はそこで私がやることだったのは、そういうことをやっちゃった以上、きちんとたたむことだったんじゃね? と今は思います。「作中人物」「読者」「作者」ってのはどっかで力関係を曲げちゃいけない均衡の関係にあるべきで、作者は自分の主張のために作中人物を利用してはいけない、というか、してもいいんだけど、それをやった場合は「作中人物」が血まみれのナイフでこっちの顔面をえぐりとられるくらいの覚悟はしてないと駄目だと思う。あるいはこっちに振り下ろされた一撃で、キーボードを打つ手を叩き潰されるぐらいの覚悟は。
今はそこまでやる実力もないし、覚悟もないし、気力も無い。私はキーを打つ手に突き立てられた一撃にたえかねて、手を引っ込めてしまったということです。
小説書くのは怖いとマジで思います。
小説を書いた性で人が死んだり狂ったりするのってのは、ほんとにあるのかもしれない。「死にそうな」「狂いそうな」人が書いた小説、ってもんでなく、「書いた人を殺す小説」「書いた人を狂わせる小説」ってもんがほんとにあるのかもしれない。
それは絶対に、ある程度自業自得とはいえ…
ここらへんはちょっと自分で覚悟を決めないといけないと思いました。正直をいうと、今回は、ほんとうに怖かった。自分が怖かったし、何も考えずにそこらへんを暴走させちゃう自分の《小説脳》ってもんも怖かった。
これからどうするかはもうちょっとよく考えようと思います。でも、今回のダメージだけは、忘れないようにしたかったので、あえて書きました。
とりあえず、読んでくださった方、読めなかった方、ともにごめんなさい。
そんで十代にもほんとごめんなさい。私が悪かった。
まだ次の覚悟はできないですが、今度はもうちょっとはましな、少なくとも逃げない小説を書きたいと思います。
すいませんでした。
なんか唐突に撤収しました。ごめん、たぶんあんまり復帰する気もないですわ… 再開した時には作品数が半分以下くらいになってるんだろうなあ。
たまに、いきなりに、自分の書いてるものの何もかもがイヤになることがあります。
文章とか、構成力の無さとか、嫌なものはいくらでもあるんですけれども、その中でもいちばんイヤなのは、たぶん、作品の根底あたりに横たわってる自分自身の根性みたいなもの。
弱い人間ばっかり、駄目な人間ばっかり書いて、それが、すごくいやになる瞬間があるのです。昔サイバーパンクSFを批判した作家が、「彼らが書いている人物は人間のクズばかりだ」と言ったという話を聞いたことがあるのですが、それとまったく同じ気分になる。
私は、原作においてはもっと正しく、強く、そして前向きな人たちを、人間のクズに貶めてるだけなんじゃあないかって。
オリジナルだと、登場人物はみんな《うちのコ》だから別にいいの。どんなに駄目でもクズでもしかたない。私のコだから、私にある程度似ちゃうのは不可抗力です。もっと別の人に書いてもらえればしあわせになれたんだろうにね、と彼らに申し訳なくなることはいくらだってあるのだけれど。
でも二次だと駄目だ。
あのコたちはうちのコじゃない。もっとちゃんとした場所にいれば、もっと、きちんと生きられるはずのコたちなんだ。
そう思うと自分の作品がどうしようもなくはずかしい気分になり、何もかもを廃棄したくなってしまうのです。
そう思っちゃったら潮時…とまではいかないけれども、同じことを続けてはいられないのかなとふと思います。
私は私の書くものがすごく嫌いなのです。吐き気のする、クズみたいな、クソみたいなもんばっかりだと思う。でもそれが私の一部であることは間違いないから、書かないわけにはいかない。お友だちに言われてしまったけれど、私は、「書かないと死んじゃうマグロみたいなかんじの生き物」だからです。
でもいくら自分の一部だからって、こんなクソッタレなもんを愛せるわけがないです。だからせめて、せいいっぱい、作品としてのクオリティを上げる。人間の死体だってせめて肥料くらいになれる。蛆虫だってモノが朽ちて何かのためになるほかの何かになる役に立ってる。そういう気持ちで。
でも、そんなもんに、私自身以外の作品を、付き合わせるわけにはいかないんだ。
なんかすごくダークな気持ち…
ウツ日記ですいません。でも、真面目にそういう気持ちだったのですよ。こういうネガティブ創作者もアリっちゃアリだよねと自分をなぐさめごまかし甘やかしながら日々頑張ってます。うちは、そういうサイトだったのですよ。読んでくださる方には、本当にごめんなさい…
図書館で借りてた「故郷から10000光年」(ジェイムズ・ティプトリー・Jr)を読みました。正確にはそこに収録されてた短編読んだ。「ビームしておくれ、ふるさとへ」を目当てに読んだ。
…あなたは宮沢賢治じゃないですか! こんなところで何やってんの賢治!(笑
「ビームしておくれ」がなんかすごく「よだかの星」に似ててびっくりです。まあ、お題の料理方法はぜんぜん違うのだけれども。「ビームしておくれ」はスタートレックに絡めて異郷への追放者気分に悩まされる青年の孤独を描いていて、「よだか」は自らの罪深さと醜さに耐えかねて星の世界への追放を願うよだかの話だけれども。
「ビームしておくれ」のラスト、主人公が本来のふるさとであるスタトレの世界を思って戦闘機でどんどん上昇していくところがすごく「よだか」っぽかった。鼓膜が破れて上下の感覚もなくなって、それでも星の世界を目指して上昇して行くところ、そんで落ちが、すごく似てた。
ティプトリーはCIAの職員をやったり世界中を旅したりした末最愛の夫を銃殺して己も亡くなったアメリカのSF作家で、賢治は東北の素封家に生まれて農業革命とかを夢見て失敗しておとぎ話書いて夭折した日本の作家だってところがぜんぜん違うけれども。なんで似てるんだろうこの二人。別に「接続された女」(傑作)、「愛はさだめ、さだめは死」(ごめんよくわかんなかったorz)とかは似てないけれども。
ありえない可能性ですけれども、ティプトリーに賢治を読ませたらどう思ったのでしょうか。逆は年代的に無理だしテクノロジー的に賢治にティプトリーが分かるのかっつう謎があるためアレですが。
SFはジャンルとして古いせいか、古典名作が多くて読みがいがあるなあ。今はジーン・ウルフの「ケルベロス第五の首」を読んでます。
まだ一章しか読んでないんだけど、なんかラテンアメリカの純文学小説でも読んでるみたいなんだぜ。いわゆるマジック・リアリズムとかいう。ジーン・ウルフは文章が美味いな~。誤変換じゃないです。舌に味わいを感じるような美味しい文章をよく書きます。しょっぱくて寒々しい北アメリカの島の浜辺の匂いの次には、どことなくエキゾチックな香りただよう夏の暑い異星の(でもどことなくカリブ風の)物語を書く。やっぱり味と匂いのある文章は良い。
あんましサイエンス分からないソフトSF愛好者なので、ハードSFは敬遠してますが(あとスペオペ…)、文学的な香りのするSF作品、特に短編は肌に合うことがあって嬉しいです。
個人的に私がSFに目覚めたのが、SFマガジンの100号記念(だっけ?)の海外SF編だったってのがよかったのだと思います。「不思議のひとふれ」とか、ドリフト・グラスについて書いたのとか、「過ぎにし日々の光」とか、すんごい名作ぞろいだもんなー。叙情SFとでも言うべきか、テクノロジーっていう粉をまぶして、なつかしさと哀切さと諧謔を含んだお話を書いた短編ばっかし。
最近だと20世紀SF傑作選の収録作品とか、あと、そっから派生した古いSF短編ばっかりつまみ食いしてます。やぱり贅沢はたのしい。美味しいものばっかり付いてると身体にも心にも贅肉が付くかもしれないけれども、ハートが霜降りになっても偏食はやめられないのだ(笑
20世紀SF傑作選だと、「情けを分かつものたちの館」(70年代編?)と、「姉妹たち」(80年代編)がマイ・ベスト。ジーン・ウルフとの出会いになった「デス博士の島、その他の物語」(70年代編)も忘れがたい。なんとなく古典的なテーマをあつかった作品ばっかりですよな。SFに新しさは求めてないのだ。「系統発生」(80年代編)も奇想って意味だとものすごく面白かったです。
そういや、山本弘が文庫収録されましたね~。
…昔は好きだったけど、今読むとあまり面白くない山本弘。やっぱり山本弘の子どもじみた正義感が駄目なのかもしれない。いいものはいい、悪いものは悪い、そこをきっぱり分けてしまう作品の調子がやっぱしどことなく子どもじみて感じられるのかも。
私は昔、自分は正義の味方の側にいて、最後はやっぱり助けられるんだと思っていた。でも今は自分は悪者のほうにいて、最後はやっつけられて私のひき肉になった死体の上にハッピーエンドのロゴが降りてくるんだという気がしている。そう思うと硝煙と爆発に拍手喝さいする無邪気で無神経な『大きいお友達』はやっぱり好きになれません。
気づくと二次創作サイトのSSが、ティプトリーか、さもなきゃル・グゥインって感じのやたら古臭いSF調になってるんだぜ…
もともと風刺にもイデオロギーにも味付け以上のもんは求めちゃいない立場ですが、ここまでストレート直球ど真ん中に70年代SF調になってるとかなり苦笑もんです。好きなもんは絶対に文章ににじみ出るのね。オリジナリティの無さは自覚済みですがこれはさすがにかなりアレです。
思い切ってどっかに《パロディです》ってばっちり書いちゃおうかなー。表サイトの「スノウ・ドーム」は飛浩隆氏のパロディですが、裏の二次はどっかの、えーっとどれとも特定できないけど70年代SFのパロディです。今時あんなん書いたって冗談にしかならないじゃんかよ。でも、二重の意味で二次創作というのも案外複雑です。
のっけからなんかひどいタイトルですが、入手困難だった超名作短編小説が復刊されましたよ!
野坂昭如《骨餓身峠死人葛》…
最近、萌えで読む文学作品(だったっけ?)というライトな触れ込みの割りに中身がバルテュスだったり蜜のあわれだったりなんじゃこりゃなヘンな本のトリに乗っており、「こんなもんふつーのヲタは絶対に読まない!でも萌えちゃう!」と身をよじっていたんですが、見事に入手困難度AAAからBくらいまでになりました。すばらしい。
ちなみに私の中の近親相姦(なぜかすべて兄×妹)小説ベスト3は、それぞれ、上の一作に加えて夢野久作《壜詰地獄》と、大槻ケンヂの《キラキラと輝くもの》の三つで決定です。最後の一個だけすごくあたらしい気もするけど気にすんな。
拍手返信です。
1/21 ミチヅキさま>
大変お返事おそくなりましてすいませ…!!
久しぶりの絵茶乱入だったにもかかわらず、皆様あたたかく迎えてくださって本当にありがとうございました。っていうか、白の女王様の萌えっぷりはすばらしいとおもいます! 長毛のうしゃぎさんの腹毛とかって最高級でハァハァハァです。でも、るるてぃえの”愛し子よ”でのハッピーアイスクリームっぷりには吹きましたが(笑
うちのカスパールは真面目だけがとりえの色気の無い子にもかかわらず、かわいがっていただけているようでほんと嬉しいです。ホーネットさんとはむしろ絡みよりも本気の戦いが見たい気もしますが!
もしも次の機会がありましたら、そのときにもぜひぜひよろしくおねがいします。自重できない字書きの寝言に付き合ってくださるのなら、ぜひともまた雑談に付き合ってくださいませv