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超お久しぶりです(挨拶


タイトルどおりですが、今日本屋さんで読んだ「風の中のマリア」がとてもとても面白かったので久しぶりに日記です。清新で気高く、そして、スピード感がある。
最近なんかメソメソした小説ばかり読んでいたので、なんか、頭から冷水を浴びたようなさっぱりした気分になれました。
煽り文だと伏せられていましたが、この作品のキモはおそらく殆ど未踏であろうジャンルに正々堂々と挑んだ作者の勇気と、そこをがっちりと王道で書ききった骨太な筆力でしょう。もしも作品が気に入らなくても最後まで読めば勉強になって、一石二鳥とまではいかなくても一石一鳥はけっして逃さない。名作です。

風の中のマリア 著者: 百田尚樹 発行年月日:2009/03/03

主人公であるマリアは、《疾風のマリア》の異名を取る《アスティリアの帝国》の若き女戦士です。彼女の使命は無数の妹たちと偉大なる母を護ること。
生涯、恋をすることも子どもを持つこともない定めのマリアは、ただひたすら、己の指名のためにひたむきに、けれど、決して盲目になることなく戦い抜く生涯を遂げます。
けれど、これは実は彼女の種族の娘たちにとっては、誰にとってもあたりまえの生き様……

なぜならマリアは、オオスズメバチのワーカー(働き蜂)だからです。

オオスズメバチ、ヴァスプ・マンデリナ(本の表記と違うかも…)は、蜂の中でも最も大型で危険な種類であるスズメバチの仲間、その中でも最大の身体と最強の毒を併せ持った生き物です。土地によっては《クマバチ》って名前で呼ばれてることもありますね。
性質は肉食であり獰猛、たまにクヌギの蜜などを吸っていることもありますが基本的には肉食であり、その強力な顎と猛毒の針を持って多くの昆虫を餌食とします。ときに、ミツバチの巣や、同種であるスズメバチの仲間の巣を大挙して襲って全滅させることもあるなど、その恐ろしさは虫好きの間だと結構有名だったりもする。
実際、伝え聞いた話によりますと、時速30kmで空を飛び、ときに一刺しで人間を死に至らしめ、しかも凶暴な彼女たちが人間の住処のすぐ横にくらしている、ということが、外国人にはかなり恐怖に感じられたりもするようです。
最近だとニコニコの”オオスズメバチが現れました”という動画でも知られていたりする。

この《風の中のマリア》は、そんなオオスズメバチの巣に生まれた働き蜂で戦士蜂のマリアがヒロインの小説です。
飛行速度の速さと、熟練した狩りの技術で《疾風のマリア》の異名を取った彼女は、けれど、成虫になるとたった30日しか生きることの出来ない定めの持ち主でもあります。ですが、虫の世界の時間経過は長い。30日の中でマリアの生きる世界は大きく姿を変え、さまざまな出来事に出会うこととなりますが、マリアは最後まで勇猛果敢、同時に、ひたむきで気高い戦士であり続ける……
この話に登場する登場人物(虫??)の多くはオオスズメバチなのですが、彼女たちは基本的に皆がゲルマン系の名前を持っています。狂戦士の趣を持つ獰猛なドロテアとか、いまや伝説の存在であるはじめの娘カタリナ、名前だけ登場する異国の娘ルーネ、クライマックスでちらりと姿を見せるとある重要人物の名前はクリームヒルテだったりと、おかげで、ヴァスプの娘たちの群像劇は、さながら戦乙女たちの戦絵巻のような趣を持ち合わせています。
働き蜂ゆえに恋を知らないマリアと違い、獲物になったり敵になったりする昆虫の大半は繁殖のために短い命を燃やす普通の昆虫たちです。短い生命に恋の喜びを歌ったかと思ったら数奇な定めを追うミドリシジミ、お互いをかばいあうようにして倒れていくオンブバッタの夫婦、鬼女のような趣を持ちながらたった一匹で生き抜くことの潔さを見せ付けるカマキリのメスなど、そういう昆虫たちの姿を見ながら、ひっそりと自問自答するマリアの姿には、なんていうか…… すいません萌えました(苦笑 基本的には実際にこっちに寄ってこられたらキャーキャー言って逃げるっきゃない巨大なオオスズメバチさんなんですが、マリアという子には、戦乙女萌え属性、女戦士萌え属性をくすぐる清らかな魅力が存在しております。ハチだけどね!! どこをとっても100%、完全にハチなんだけどね!!

作中には、もちろん、はかない人生を恋に燃やす定めのオスのオオスズメバチ、オオスズメバチの天敵ニホンミツバチ、そして逆にオオスズメバチが最大の天敵であり彼女たちにとっては良いカモ(苦笑)以外の何者でもないセイヨウミツバチ、などのオオスズメバチ好きには欠かせない登場人物もあらわれております。
マリアの目から見た、ニホンミツバチのかの有名な必殺技、《蜂球》の恐ろしさはなんともいえないものです。恐れを知らない戦士であるマリアをも恐れおののかせるニホンミツバチの底力は必見。

まぁ、問題点というかなんていうかをあげるとしたら…
設定上どうしても説明しないといけないこととはいえ、オオスズメバチたち本人の口から《ゲノム》とかいう言葉が出てくると違和感があるというあたりでしょうか。このあたりは作者さんもきっと葛藤があったのだろうと思うから見ないふりをするのがきっと正解。

生きることが戦いであり、慈愛もまた戦いであり、死ぬこともまた戦いである。
普段は遠くからビクビクしながら見ているだけの相手であるオオスズメバチたちの世界は、内側から見ると、まるで北欧のサーガに表れる英雄たちの生き様のように清新にして猛々しいものです。
まるでヴァルキリーのような気高さと美しさをもったマリアの生き様は、風の中に始まり、風の中に終結します。科学的な正確さにも申し分なく、これを読めばオオスズメバチの生態についてだいたいのことはつかめるかと。女戦士萌えの人のコレクションにも、小中学校の学級文庫にもどっちもピッタリという稀有な一冊です。どうぞご一見あれv

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ここ半年くらい完全に生活をひっぱりまわしてくれた、《遊戯王GX》がもうじき完結するからね!
最近、またオリジナルも書きたくなってきたし、ぼちぼちオリジサイトも更新復帰でしょうか… 

二次創作→オリジ→二次創作… というペースで小説を書いていて、あたらしいジャンルへと移動するたびに、目の前にあたらしいステップが出てくるなー、と最近思います。
ミスフルからオリジナルに移動し、それからオリジナルからGXへ行って、そのたびにあたらしい課題が目の前に出てくる。自分がステップアップしていくというのは純粋におもしろいことですが、けっこう自分の枠とか癖も見えてくるのがこまったもの。
私は、《家族関係》もっというなら《親子関係》ってものを、ものすごく、テーマとして扱います。
《親になりきれない親》や、《子どもでいられなかった子ども》ってものを、負の形(失敗と挫折、死)って形で書くにしろ、正(救済、希望、自立)って形で書くにしろ、ここからどうしても逃げられないんだよな… GXではその部分に課題をもったキャラクターがいたため、彼にスッコーンと落ちて、そっちにばっかり拘泥してた気もします。
弟に、「姉は一回、自分のテーマを書きつくして、それを乗り越えられないかためしたほうがいいじゃないの?」といわれたのですが… 難しいなあ。自分のテーマをどこまでも追求したいかっていわれるとそうでもないんですけど、私はこれに取り付かれてるのもまた事実なんですよね。
「恋愛」とか、「友情」を書きたい人はずーっとそれを書いてていいのに、「親子」ってテーマにこだわってるとなんか未成熟に見られるのは不本意だ(笑

最近、三原ミツカズ《たましいのふたご(下)》とTONO《チキタGuGu》の最終巻を購入しました。三原ミツカズとTONOさんって実力的には逼迫、っていうか正直TONOさんのが上手いと思うんですが、絵柄でかなりお互いの立場が変化してますよね… 漫画家の実力ってやっぱ絵なんだなー(しみじみ
でも今回の二冊だと、三原ミツカズに軍配。というか、《チキタGuGu》は、非常に高いハードルへと挑戦し続けた意欲作だったんですが、ラストになってうまく落としそこなった印象がありました。まあでもしかたないと思う。勇気ある失敗は臆病な成功にまさる、ってなもんで。

《たましいのふたご》は、悲惨な死をとげた二人の子どもが幽霊となり、たくさんの《たましいのふたご》たちの元へと現れるという物語です。
クラシカル・ロリータ(王子ロリ)風の服装のアレックスと、メタモとかハートE風のロリータ(ただし本編だとスリップ・ドレス)という格好のリーカ、それぞれアメリカ人とドイツ人であり、それぞれ《悲惨な死を遂げた》《片目を喪失している(それぞれ理由は違う)》という以外にはあんまり共通点がなかった二人が、下巻では、上巻の狂言回し的立場からうってかわって、それぞれの死の理由やその物語を語ることになります。
《たましいのふたご》の下巻は、不妊に悩み奔放な双子の妹へのコンプレックスを持った春陽という日本人女性と、かつて児童心理学者でありながら己の無力さゆえに現在は職を退いているテオ、という二人の出会いが、アレックスとリーカの物語に二重写しになります。
アレックスとリーカが、いかにも三原ミツカズ風の「親からの愛・理解を得られなかった子ども」であるのに大して、子どもだった過去から、「母になれない自分」に葛藤する春陽のキャラクターはなんか新鮮でしたね~。
「上手に子どもでいられなかった子ども」と、「親としてふるまえなかった親」ってのは、実は、セットになってるもんだ…ってことは《Doll》のころからも書いてあったテーマなんですが、こうやって正面からとりあつかったのは初めてじゃないか?(もっとも、私は三原ミツカズ全作品を追いかけてるわけじゃないですが…)
テオが春陽に対して、「子供は親の道具じゃない/けれどねハルヒ/親も子供を産むだけの道具じゃない」と語りかけるシーンは、むちゃくちゃ感慨深かったです…
そして、アレックスの「いちばんこわいこと」はまだしも予想できましたが、リーカのソレは驚いた。マジでびっくりした。ストーリーテラーとしての才能が出てると思いました。

うってかわって《チキタGuGu》。
これは、「人食い」という人間を殺し喰らうことになんのためらいも持たない存在と、エゴを持ち等身大である「人間」ってもんを対比させて、「殺すこと/殺されること」をものすごくディープに描いていた意欲作でした。
妖怪退治の一族であったシャンシャン一族は、内実は権力欲とエゴの塊で、自分たちに必要がなくなったとき、メンバーであった少女を陵辱することすらためらわない。
温厚で有能であった老皇帝が、それでも死の恐怖ゆえに暴君と化し、善良で愛すべき存在のまま、大量虐殺へと手を染めていく。
冷酷で、人でありながら「人食い」である存在をもっとも親しく思っている少年は、かつて、”生き残るため”におこなっていたとある行動のために存在すら否定されて、家族全てを殺され、己の存在まで滅ぼされそうになった。
どこまでも悲惨な物語と、哀しみや苦しみを背負った人間たちの連鎖で… 正直、TONOさんのポップな絵柄でないと、とても見てられないような内容がけっこう多い(苦笑) 絵が下手だーと言われながら、実際、この絵でないとキッツイ作品を書いてるのも事実なのですよねえ。
たくさんの人々との出会いの末、”人食い”だったラー・ラム・デラルは、「人間にも心がある/心があるものを殺して食うことは出来ない/けれど人を食わないと餓えて死ぬ」という究極の葛藤に追い込まれます。そんで、ラーと共に生きてきた主人公のチキタも、そういう矛盾と、あと、絶対的なタイムリミットにたどりつくことになる。
そんでまあ… 最終的にはこの作品は、とってつけたようなハッピーエンドにたどりつきました。
正直、TONOさんはこのエンディングに納得してないだろうなー、と雑誌掲載時にも思ったんですが、やっぱり、ラストあたりだとものすごく葛藤したみたいですね。(そういう部分も茶化して書く作風の方なんで、シリアスなところは分かりませんが…)
どう頑張ったって万事丸く、とはいかない話を書いちゃうTONOさんだから、ここまでながーく書いてきて、キャラクターにも愛着があり、読者からも悲惨なエンディングなんて望まれていない作品をどうやって終わらせるのか… ってところには、そうとう困ったんじゃないかなあ。
でも、最終的には、どれほどむごたらしい現実であっても、「許す」という一言を口にしたい…という作家さんだからこそ、こう終わらざるを得なかったのかな、と思います。
最近発売された《ラビット・ハンティング》の二巻がものすごい傑作だったから、まあ、これはしかたないのかなーと思いつつ、ちょっとさみしい… でも、ラストでクリップがちょっと救われた風だったのは、私は嬉しかったです。


わたなべまさこ『聖ロザリンド』を漫画文庫にて入手。うわさには聞いていたが…うわあ、これはすごい。

このお話は、まるで天使のように愛らしく、信心深い少女ロザリンドのお話。彼女はママのことが大好きな8歳の女の子。「嘘をつくのはいけないこと」というママの教えを守り、人に優しく、甘えん坊。
でも、ロザリンドは、たったひとつ、呪われた運命を持っていたのです。
人を殺すことにまったく禁忌を憶えない、という倫理観の壊れと、8歳の少女という非力な立場に置いて残虐極まりない殺人行為をおこなう《殺人の才能》…

この話はロザリンドが最初の殺人をおかしてから、最終的に実父の手によって葬り去られるまでの殺人記録って感じですが、話の設定として、ロザリンドには二つの特徴があたえられてます。
天使のような無垢さと、本能のままに殺人を繰り返す《呪われた血》の二つです。
ロザリンドの《呪われた血》に関しては、彼女の祖先に同じく16歳でギロチン刑にかけられた連続殺人鬼の少女がいたということになっています。これは現在だとあんまり採用されないぽい設定だなー(苦笑 でも、その結果、ロザリンドが殺しを繰り返す《理由》が存在しないのですね。彼女はやさしい両親にこよなく愛されて育っており、また、途中でロザリンドと心中を図ろうとして自分だけ死んでしまう母親のことを、中盤以降のロザリンドは、一途に探し続けます。

面白かったのが、ロザリンドの犯行を知った大人たちは、大半、「こんなかわいらしい、あどけない、天使のような子がそんな恐ろしいことをするなんて」という反応を示したってことです。実際、ロザリンドを抹殺しようとし、最終的にどっちも死んでしまう(たぶん父も死んでるだろうなあ)両親も、ロザリンドの罪深さおそろしさにおののきながらも、最後まで「娘への愛」を貫きます。

これ… もしも今の時流で書いたら、ロザリンドはこんなに幸福(?)な運命はたどれないだろうなー、と思いました。
この作品だとロザリンドへの深い愛と、罪深さへの恐ろしさの間で懊悩する父親にたいしても回りは同情的だし、最終的にはロザリンドと心中するために真冬のアルプスへと消えて行く二人を見送りすらします。
今だと「子どもが歪むのは親の教育が原因」「親は子どもの行動に責任を取るべき」「どれほど幼い子どもであっても罪をまぬがれることはできない」っていう考え方が一般的ですから、ロザリンドは途中で殺されてしまうのではないかしら…と思いました。

天使のような姿と、悪魔のような心を持つ子どもの殺人鬼、って、考えてみると、《MONSTER》のヨハン・リーベルトもいましたね。彼と比較してみると、ロザリンドの特徴がわかる気がする。
ロザリンド:愛情深い両親の養育・恵まれた環境・血統による殺人衝動・周囲の人間からの同情的なあつかい(呪われた血を持ってしまった可哀想な子)
ヨハン:双子の妹はいるが父は不在、母にはほぼ棄てられている・実験施設による養育・本来のものか教育の結果か分からない殺人示唆・周囲の人間からの畏怖と嫌悪(天使の皮を被ったモンスター)

…なんかこう、あきらかにヨハンのほうが可哀想なあつかい(苦笑 でも、今の時流はこっちなんだよなぁ。
ちなみにロザリンドは8歳にして21人を殺し、「この子が大人になったとき、己の罪をしってどれだけ苦しむことか」という配慮により、父によって深い雪のなかへと葬り去られました。最期までロザリンドには愛にみちた養育者が存在したわけですね。その分、彼女の救いようのなさが強調されるわけですが。
ロザリンドは《死の天使》だったわけですが、どこまでいっても《アウトサイダー》とはならなかったわけです。そこらへんの比較と、世間での少年犯罪にたいする見方の違いとかをならべて考えると面白いかもですね。

ちなみにロザリンドが殺しを繰り返す狡猾さは、ふつーに怖いです(笑


 その島は夜、対岸から見るとおおきなデコレーションケーキに見えるのだと、チカゲは知っていた。それもちいさな子どもの誕生を祝うパーティケーキ、たくさんの蛍光色のバタークリーム、砂糖細工やマジパン細工の菓子、ぱちぱちと爆ぜる花火を飾ったケーキ、食べられない、華やかで祝祭的なケーキだ。
 事実そして、ソレはその通りなのだと今のチカゲは知っている。
 不夜城のように島を彩る赤や緑や白の炎は、多くのゴミを埋め立て、今もぐずぐずと地盤沈下していこうとしている地面の底からガスをだし、燃やしている炎の色なのだ。島と本土をつなぐ《雄橋》と《雌橋》には今日も春をひさぐ子どもたちがカーニバルの華やかさで笑いさんざめく。化繊、メッキ、プラスチック、ゴム、羽毛。脂粉と汗と精液と、子ども独特の甘ったるい体臭の、交じり合った匂い。
 この島はケーキだ。腐ったケーキ。
 チカゲは誰かの反吐がこびりついた橋のたもとによりかかりながら、島の明かりを見上げ、うっとりとそう考える。
 腐ることは、発酵することであり、熟成することであり、還元されることであり、また、練成され、変成されることでもある。
 チカゲの妄想は言語に依存している。チカゲの細い指、パラフィンでガラス棒を覆ったような指がおもちゃのキーボードをたたくぎこちなさで動くと、腰に付けられたカクテル・ボードが、ネイサン社製のアシッド系ドラッグ”へヴンアイズ”をチカゲの体内へと送り込む。チカゲのお気に入りのフレーバーはだいたいはアシッドを中心にして、その日の気分により、7種類のドラッグを調合する。多くても少なくてもいけない、七種類、虹の色彩の種類である数でなければいけないのだ、とチカゲは信じている。
 チカゲの調合のなかでも特徴的なものである、天然のイヌホオズキからとられたスコポラミンが、漆黒に近いチカゲの目の中で瞳孔を拡張し、その目のつぶらな黒さを、さらに強調されたものとする。
「チカゲ」
 橋の上から、ふいに、声がした。チカゲは緩慢にふりかえった。ゴミの積もった斜面をすべりおりてくるのは、ひょろながく背の伸びた12歳の少年。あるいは少女だろうか。ゼブラ柄のスキニーパンツの腰に何色ものアクリルの鎖を飾り、パンチで耳殻を打ち抜いた耳には、ハート型のプラグがはめ込まれている。
「カカオ?」
「チカゲ、お客さん」
「……なんで?」
 カカオ、と呼ばれた少年は苦笑して、チカゲの傍まであるいてくると、真っ白な頬をかるく叩いた。湿っぽい音がした。
「さっき、客を呼んでるって言ってただろ」
「言ったかな?」
「言った。たった、5分前だ」
「だったら、憶えているわけないよ。今日は三分だもの」
 答えながらたちあがると、真っ白な足がやわらかい汚泥に埋もれた。身体をひきとめようとする泥の抵抗をむしろ楽しみながら、チカゲはよろりと立ち上がる。真っ白な肌、脱色とも染色とも縁の無い生の黒髪、すりガラスのような質感の合計で18の爪は、外ではおとなしい少女で通るのだろうはずが、この島では逆に異様だ。腰のカクテル・ボードは、うさぎのキャラクターがプリントされたビニールバックで肩からつるされている。
 だが、チカゲの姿は、シンプルでも、良識的でもない。
 おおきく開いた目、虹彩ぎりぎりにまで拡張した瞳孔と、そのまわりをびっしりと覆った黒く短いまつげ。
 その表面、うるんだ角膜の上にまで、油膜のような万色が繁茂する。
 チカゲは軽く髪をはらった。胞子が、雲のように飛び散り、虹色の煙となる。細い襟足から肩にかけて、生白い色のキノコが、うるんだ灰色の子実体が、黄色や赤の粘菌が、無目的で無意味な極彩を描く。
「今日は、三分だ。調整している子実体が、それ以上は持たないんだよ」
「へぇ、やばそうだな」
 短く口笛を吹くカカオは、しかし、ひどく面白そうな顔をしている。細い足を泥からなんとか引っこ抜いたチカゲは、ゴミの積もった斜面を、すべての手足を使ってよじ登り始める。
 爪は、手足を合わせて、18枚だ。
 残りの二枚、両手の薬指からは、しっとりとした頭をもちあげて、真っ白な茸が顔を出そうとしている。
 チカゲは、この”ネヴァーランド”でもっとも”ナチュラル”なアシッド・ブレンダーだった。
 ”ナチュラル”なことにおいては、彼女の右に出るものは居ない―――
 なぜならチカゲの作り出すアシッドは、すべて、彼女の身体を苗床として精錬されているのだから。
 あるいは、彼女の妄想を、というべきなのだろうか。
「さあカカオ、客はどこだ。注文の成分は、もう、精錬が終わっている」
 チカゲは、ガラス玉のような眼をまたたきもせずに、言う。
 その透き通った漆黒のひとみの表面をも、何種類もの菌糸や粘菌が、いっそ人工的な極彩色で、いろどっている。

**********

続かないよ!
牧野修氏の”MOUSE”を読んでいて、そのあまりにアシッドな世界観に圧倒されて。
妄想が現実を侵犯するっていうアイディアは他のやつでも同じだけど、やっぱり初期作品の”MOUSE”は別格。18歳未満の子どもだけが住む無法地帯ネヴァーランド、ドラッグを体の中に直接送り込むためのカクテル・ボードを見につけた子どもたちが暮らすアウトランドを舞台にしたアシッド・パンク・ノベル。
でも、最終話ラストの、深海魚のネオンめいた光のような透明感にはうっとりする。ていうかジョン・メリックすてきすぎる。
体中に茸をはやした女の子については、こういう絵をかいてる人がどっかにいたような気がする。


図書館で借りてた「故郷から10000光年」(ジェイムズ・ティプトリー・Jr)を読みました。正確にはそこに収録されてた短編読んだ。「ビームしておくれ、ふるさとへ」を目当てに読んだ。
…あなたは宮沢賢治じゃないですか! こんなところで何やってんの賢治!(笑
「ビームしておくれ」がなんかすごく「よだかの星」に似ててびっくりです。まあ、お題の料理方法はぜんぜん違うのだけれども。「ビームしておくれ」はスタートレックに絡めて異郷への追放者気分に悩まされる青年の孤独を描いていて、「よだか」は自らの罪深さと醜さに耐えかねて星の世界への追放を願うよだかの話だけれども。
「ビームしておくれ」のラスト、主人公が本来のふるさとであるスタトレの世界を思って戦闘機でどんどん上昇していくところがすごく「よだか」っぽかった。鼓膜が破れて上下の感覚もなくなって、それでも星の世界を目指して上昇して行くところ、そんで落ちが、すごく似てた。
ティプトリーはCIAの職員をやったり世界中を旅したりした末最愛の夫を銃殺して己も亡くなったアメリカのSF作家で、賢治は東北の素封家に生まれて農業革命とかを夢見て失敗しておとぎ話書いて夭折した日本の作家だってところがぜんぜん違うけれども。なんで似てるんだろうこの二人。別に「接続された女」(傑作)、「愛はさだめ、さだめは死」(ごめんよくわかんなかったorz)とかは似てないけれども。
ありえない可能性ですけれども、ティプトリーに賢治を読ませたらどう思ったのでしょうか。逆は年代的に無理だしテクノロジー的に賢治にティプトリーが分かるのかっつう謎があるためアレですが。

SFはジャンルとして古いせいか、古典名作が多くて読みがいがあるなあ。今はジーン・ウルフの「ケルベロス第五の首」を読んでます。
まだ一章しか読んでないんだけど、なんかラテンアメリカの純文学小説でも読んでるみたいなんだぜ。いわゆるマジック・リアリズムとかいう。ジーン・ウルフは文章が美味いな~。誤変換じゃないです。舌に味わいを感じるような美味しい文章をよく書きます。しょっぱくて寒々しい北アメリカの島の浜辺の匂いの次には、どことなくエキゾチックな香りただよう夏の暑い異星の(でもどことなくカリブ風の)物語を書く。やっぱり味と匂いのある文章は良い。

あんましサイエンス分からないソフトSF愛好者なので、ハードSFは敬遠してますが(あとスペオペ…)、文学的な香りのするSF作品、特に短編は肌に合うことがあって嬉しいです。
個人的に私がSFに目覚めたのが、SFマガジンの100号記念(だっけ?)の海外SF編だったってのがよかったのだと思います。「不思議のひとふれ」とか、ドリフト・グラスについて書いたのとか、「過ぎにし日々の光」とか、すんごい名作ぞろいだもんなー。叙情SFとでも言うべきか、テクノロジーっていう粉をまぶして、なつかしさと哀切さと諧謔を含んだお話を書いた短編ばっかし。
最近だと20世紀SF傑作選の収録作品とか、あと、そっから派生した古いSF短編ばっかりつまみ食いしてます。やぱり贅沢はたのしい。美味しいものばっかり付いてると身体にも心にも贅肉が付くかもしれないけれども、ハートが霜降りになっても偏食はやめられないのだ(笑
20世紀SF傑作選だと、「情けを分かつものたちの館」(70年代編?)と、「姉妹たち」(80年代編)がマイ・ベスト。ジーン・ウルフとの出会いになった「デス博士の島、その他の物語」(70年代編)も忘れがたい。なんとなく古典的なテーマをあつかった作品ばっかりですよな。SFに新しさは求めてないのだ。「系統発生」(80年代編)も奇想って意味だとものすごく面白かったです。

そういや、山本弘が文庫収録されましたね~。
…昔は好きだったけど、今読むとあまり面白くない山本弘。やっぱり山本弘の子どもじみた正義感が駄目なのかもしれない。いいものはいい、悪いものは悪い、そこをきっぱり分けてしまう作品の調子がやっぱしどことなく子どもじみて感じられるのかも。
私は昔、自分は正義の味方の側にいて、最後はやっぱり助けられるんだと思っていた。でも今は自分は悪者のほうにいて、最後はやっつけられて私のひき肉になった死体の上にハッピーエンドのロゴが降りてくるんだという気がしている。そう思うと硝煙と爆発に拍手喝さいする無邪気で無神経な『大きいお友達』はやっぱり好きになれません。

気づくと二次創作サイトのSSが、ティプトリーか、さもなきゃル・グゥインって感じのやたら古臭いSF調になってるんだぜ…
もともと風刺にもイデオロギーにも味付け以上のもんは求めちゃいない立場ですが、ここまでストレート直球ど真ん中に70年代SF調になってるとかなり苦笑もんです。好きなもんは絶対に文章ににじみ出るのね。オリジナリティの無さは自覚済みですがこれはさすがにかなりアレです。
思い切ってどっかに《パロディです》ってばっちり書いちゃおうかなー。表サイトの「スノウ・ドーム」は飛浩隆氏のパロディですが、裏の二次はどっかの、えーっとどれとも特定できないけど70年代SFのパロディです。今時あんなん書いたって冗談にしかならないじゃんかよ。でも、二重の意味で二次創作というのも案外複雑です。
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