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最近ぜんぜんまともに日記を更新してなくてすいません。書くようなことが何も無い日常だから……
もっぱら最近やってることといったら、『JOJOの奇妙な冒険』を読むことくらい?
知り合いが熱烈に進めてるので、特にオススメらしい四部を読んでみたところ、たしかに私好みでした。ってゆーか、作者さんのあまりのクレバーさに脱帽。さすが天才と呼ばれるだけはあります。こんなに凝った構成の話をずっと連載し続けてきたって、どういう脳みその持ち主なの。
個人的にひっくりかえったのは、四部のかの有名な『ジャンケン勝負』のあたりでした。
ひたすら心理戦の探りあい、ってのはどっかで見たことあるぞと思ったら、デスノートだったんですが、でも、デスノートには集中線とかは使われないよなー。キャラもずっと座ってたし。
読んでないんですが、『ネウロ』も心理トリック系のお話だとのこと。ちょっと気になります。
本だというのだったら、最近なぜかGAL系のファッション誌が、自分の中で大変面白いです。
あのテのファッションがすきだというのもあるけれども、所謂GAL系のなかでも、様々な分類があるらしいというのが面白い。黒肌渋谷系ってのが一番王道で、それの脇筋に白肌キャバ系ギャル、ちょっとヒップホップ系の入った方面、ってのがあるらしい。
で、面白いのが、GAL系雑誌だと意外にも『モテ』に対するアプローチが少ないってことです。
『イケイケ』『アゲアゲ』なのが重要なんであって、彼女らは、自分たちがいわゆる普通の男性にはウケが悪いということを十分に知ってるらしい。例外は白肌キャバ系で、そっちの雑誌は男性を非常に意識してます。その辺がズレを感じるところなんだろうなあ。
あと、読んでいて、けっこうシリアスに「いじめ体験」「家庭不和」などを語ってる記事が多いという印象を受けたのもびっくりしました。『non-no』だとこういう記事はまずやらない。つまり、GAL系雑誌を読んでる読者のなかには、「いじめ」や「家庭不和」などの問題を意識してる人が多いってこと?
将来についてなどでも、座談会で、「GALはカリスマ店員になるか工場で働くかしかない」っていう台詞がモデルさんから出されていて、かなりショッキングでした。カリスマ店員ってのは一種の販売職だし…… 工場で働く、っていう未来像には、何か、非常に低所得なイメージがあります。
「いじめ」「家庭不和」ってのは典型的な「小さな共同体」からの排除の姿だし、かといって異性に対して積極的にアピールすることも望まない…… 未来像も決して明るくは無い。でも、『アゲアゲ』であり『イケイケ』なのが彼女らだとすると、何か、ものすごく物悲しいというか、切ない姿が浮かび上がってきます。
ある意味、「あらかじめ用意された共同体から排除されたため、別の世界に居場所を求める」ってのは、いわゆるバンギャ、オタクなどと似たイメージなんですが、未来モデルの存在しているバンギャ(音楽関係の仕事に就く、服飾デザインの路に進む)、オタク(漫画家、声優など、サブカルチャーの発信側に向かう)と違って、GALには未来像がありません。なってもカリスマ店員。……長い間出来る仕事ではありません。
何か、『アカルサハ滅ビノ姿デアロウカ』という太宰治の一節が、思い出されます。
たぶん本人たちは絶対に認めないことだろうと思うし、こういう見方自体が彼女らにとっては不本意なのでしょうが、意識的に「バカ」だと思われたがっている彼女たちの生き方に、なにか、一抹の寂しさと潔さを、同時に感じる気がします。
ドラマ『ヒミツの花園』に出てくる『花園ゆり子』って、和田慎二+CLAMPですか……?
作品は『忍法ロマネスク』で男性少女漫画家(このあたりで和田慎二)で四人ユニット(このあたりがCLAMP)。絵柄も和田慎二っぽい。誰が考えたのか知らんが、マニアックな設定です。CLAMPは少女漫画だけじゃなくてなんでも書くけどな~。最近出てたCLAMPのもこな先生が書いた着物の本、出てくるデザイン着物が舞台衣装のようでかっこよかった。
以前からずっと欲しかったトーキングヘッズ叢書の最新刊を入手しましたよ! トーキングヘッド叢書はサブカルチャー&モダンアートマガジン(……で、あってるよね?)なんですが、おもしろそうな特集をやってるときに買ってます。
今回の特集は『アウトサイダー』。アウトサイダー・アートについての記述があるかなぁと思って買ってみたのですが、アウトサイダー・アートだけじゃなくて、障害者によるパフォーマンスについての記事が多くて面白かった。障害者の参加するワークショップのうちアート色の強いものから、障害者プロレスから障害者SMまで。障害者プロレスは数年前から聞いてたというか、まだ政治・右翼色の出てくる前の『ゴーマニズム宣言』に記事が載っていた記憶があります。障害者SMは、以前のトーキングヘッズ叢書『奴隷の詩学』で記事を乗っけてた卯月妙子も話をしてたなぁ。時代の流れなのでしょうか。『セックス・ボランティア』って本も出たし。
正直、このあたりのことは現代ではけっこう大きなタブーになってる部分だと思います。障害者についての話は、何故か、「イイ話」しか出てこないなーというか。
かつて、障害者ではなく、『少女』がタブーだった時代もあったらしいですね。
少女というのは侵されざる聖域で、決して汚れた手で触れてはいけない存在だったらしい。久世光彦の作品なんかには、まだ少女がタブーだった時代についてのお話が書かれてます。でも今や少女というのは一種のセックス・シンボルと化している。そして、その時代には、今はタブーの対象と化している精神障害者なんかが今とはぜんぜん違う扱いの存在だった、と。
ちなみに四肢喪失者に対してセックスアピールを感じる人のことを、『アンプティ』というそうです。そして、一種のフェチが最終的には対象との同一化を望む(ハイヒールフェチの人が、自分でハイヒールを履いちゃうような)のと同じように、アンプティの最終的な形は自ら自分の四肢を切り落とすところにまで達するのだとか。オタク的にフィクションとして楽しむのではなく、実際に体験しちゃう本物のフェティッシュの世界だと、現在、肉体改造はけっこう一般的になりつつあるみたいですね。肉体改造がファッション化してるというか、一般人であっても、タトゥなどの延長線上で軽度の肉体改造をやっちゃう人は珍しくない。ボディピアスとかだけじゃなく、スプリット・タンなどの肉体改造や、スカリフィケーションなんかをやってる人も、探すと案外簡単に見つけることができます。ちなみにスカリフィケーション:傷をつける、焼印で焼く、薬品で焼くなどの方法を使って皮膚に模様を書くというタトゥに類似した肉体改造。私はこれで有名な施術者の人が、ショー形式でブランディング(焼印)の実演をしているのを見たことがあります。
私はちょっぴりアンプティのケがあるかな? というか、フリークス趣味があるかなぁと思います。でもこれって意外と一般的というか、ネットの海なんかを泳いでいると、四肢喪失だったり肉体改変だのを取り扱ったポルノ的画像をよく見かける。当然、ファッション的な部分もあるとは思いますが、自傷者の一般化なんかと一緒に考えてみると、バーチャル化の時代に伴った皮膚感覚の変容ってのも関係あるのかなぁと思います。
私が自分がアンプティであること、ていうかフリークス趣味であることの自覚を促してくれた体験は、三つほどあります。
一つはごくシンプルに、かの有名な映画、トッド・ブラウニングの『フリークス』を見たこと。そして二つ目は老人福祉施設での介護実習を受けたこと。ここまでは一般的な体験ですが、最後の一つは、電車のなかで激しい自傷の傷を持った人を見たことです。
男性だった(この時点でかなり珍しい)と思うのですが、骨格、筋肉としては、とてもきれいな腕をした人でした。きれいな男性の体は、骨が美しいなぁと思うのですが、肘や手首のきれいなその腕には、手首から肘にかけて、横の傷跡がびっしりと刻まれていました。そして、たぶんタバコを押し付けたのと思しい丸い火傷が、二つづつ、縦に並んでました。
普通だったら、いろいろと感想があると思うのですが…… なんていうか、私はその『ラギット感』にけっこう衝撃を受けました。
ラギット感―――ざらざらした感じ、ちくちくした感じ、ひりひりした感じ、靴とかのサイズが合わずに足に靴擦れができるような感じ。皮膚の表面が刺激されて、自分の輪郭を明確に自覚するような感じとでもいいましょうか。その人も傷のある腕を堂々と出して電車に乗っているあたり、自分のその『ラギット感』を人に対して主張したいってところがあったんだろうなぁと思います。それが病的なことだと思う人もいるだろうし、場合によっては嫌がる人もいるだろうに、あえて、傷を見せる。実際にその人を見たのはそれ一回こっきりだったのですが、私は、その『ラギット感』のあまりの雄弁さに圧倒されました。
この場合の『ラギット感』ってのは、ある意味で、バーチャルの対語…… みたいな感じで使ってます。
理屈にならない肉体感覚ってのは、バーチャルの世界だとありえないものです。何を話していても上滑りする感じ、無意味な言葉だけで内容の無いやり取りをする感じのあるバーチャルと違って、『痛み』というのはどうしようもなく明確です。『痛い』という感覚は非常に原始的なもので、偽りようが無い。それを外に向かって主張する『傷跡』、しかもあきらかに自ら望んで付けたと分かる『傷跡』というもののリアリティに…… 変な意味で魅力を感じてしまったのでした(苦笑)。
まあ、『自傷』と『障害』、ついでいうと『老い』ってのは全部別のものです。ある程度自覚選択的に自分に付けるもの、本人の意思には関係の無いもの、それに誰もがいつか被るもの。共通するのは、『ラギット』であるという部分です。でもどれにしろザラザラ、チクチクしてて不愉快で、どうしようもなく自分と世界との齟齬を感じさせる。でも、その『痛み』というのは、『そこに自分が存在すること』というものを自覚させてくれるものでもあります。
たとえば胃が痛ければ、そこに『胃』があるってことを自覚することだし、献血に行ってチクリと針を刺せば、そこに自分の皮膚があり、血が流れているということを自覚させてくれます。
これは非常に自己中心的で、相手のことを考えない考え方だと思うのですけれども、『ラギット感』のある相手と向き合うということは、同時に、自分自身との差を強力に自覚させられ、『私』というものの輪郭を再認識させられるという体験でもあります。実際に体験したことは無いけれども、もしも私が腕の無い人と向き合い、無くなった腕の断面に触らせてもらうことが出来たなら、『自分には腕がある』ということを強力に感じさせられることでしょう。足の悪い祖父と一緒に歩いていると、『自分が歩いている』ということがどういうことなのかを感じさせられます。骨の動きが違うし、筋肉の動きも、体重の移動の方法も違う。
「由仁子さんはSとMが混ざってる」と人にいわれたことがあるんですが(笑) まあ、ようするにこういう自己確認の手段として『痛み』を捉えているという部分があるせいなんだろうなぁ。実質的にSMプレイにふけったことなんて一回も無いのですが(それが普通だ)、小説とかの中だと執拗に精神的、肉体的な『痛み』を追求する部分があるなぁとは思います。でも、それはぼやけて見失いがちな自分の『輪郭』を再確認することであり、それこそが『痛み』の持つ奇妙な快感の本質なんじゃないかと思うのですよー。
ただまぁ、この場合の『痛み』ってのは自分で制御できるレベルのものに限るというのがポイント。別段他人から暴力振るわれたり、病気になって痛い思いをしてもうれしくはありません。(笑)
この辺の表現に関しては、飛浩隆氏の作品の中で雄弁に語られてますね!
『このSFがすごい! 2007』の中のロングインタビューだと、そういう自傷感覚とかについてが細かく語られていてちょっと感動しました。今日買ってきたトーキングヘッド叢書の新刊の中での日野日出志論にもちょっと似たことが書いてあったなぁ。同じく、牧野修の作品にも、そういう皮膚感覚の変容とか、狂気というものについてが繰り返し語られます。
あとちょっとずれるかもしれないのですが、小川洋子作品の中にも、そういった細かな『ラギット感覚』ってのが存在し続けてると思います。現実との違和、病や死や老いへの偏愛…… エッセイの中で小川氏は『小説とはすでに死んでしまった人と対話するように書かれるべきである』と書いていたのですが、至言だと思います。
飛浩隆氏の傑作、『ラギット・ガール』には、体中の皮膚組織の疾患によって、常に全身の皮膚に痛みやかゆみなどの不快感を感じ続けている――― そのことによって、何もかもを完全に記憶することが出来るという完全記憶能力を持った女性が登場します。また同時に、自分自身のアイデンティティの境界線を保持するために『自傷感覚』を利用する、という癖を持った女性も登場します。外見的には片や非常に醜く、片や非常に美しい二人の女性が『痛みによってアイデンティティを保持する』という一点において重なり合う、というところにSF的な感動を感じました。まさしく、センス・オブ・ワンダー。
『わたしの痛みをあなたが感じることはできない』というのは、二人の人間が出会ったときにお互いの融合を阻む最も大きな壁なんじゃないでしょうか? もしも『わたしの痛みをあなたも感じることができる』のなら、その二人はどこまでが自分でどこまでが相手なのかがわからなくなってしまうんじゃないかって気がします。
人間は動物です。皮膚感覚っていう一番原始的な感覚で区別される、というのが、相互不理解の第一歩。中途半端にお互いへの温い共感が蔓延するバーチャルの世界だと、そういった『痛み』『歪み』『きしみ』の感覚が非常に新鮮に感じられます。
とまれ、まあ、『アウトサイド』『インサイド』ってのは、こういう辺りで感じるものなんじゃないかな、と思ったしだいでございます。
買ったから見てるんですけど、けっこうついついハマるのですよね…… 懐かしいというか。
ちなみにスーパービックリマンのDVDボックスも買ったんですが、弟がなぜかストーリーを覚えていてびっくりしました。敵の大ボス級のキャラクターが実は味方だったという衝撃展開が子供心にショックだったそうです。
ちなみに最近は現在TV放映の『祝!ビックリマン』にハマってます。敵に寝返ってるピーター神子と一本釣帝がショックで…… あえての君主のためにかつての仲間と戦う、というシリアスな展開が萌え。彼らがどういう風に今後推移していくのかが気になるなぁ。
で、ぽつぽつとビックリマン二次創作を書いたりもしてます…… 非常にパラレル色が多い作品なのでどこで公開するかはまだ不明。とりあえず『祝!』設定の若神子の話です。ピーくんとつりぽん贔屓。
とりあえず最近は『デス博士の島その他の物語』とか、『文学少女と飢え乾く幽霊』とかを買ってます。あと『このSFがすごい! 2007』も買いました。『ラギット・ガール』のネタバレが読みたかったんだもの。
あと、『独白するユニバーサル横メルカトル』に掲載されてた『無垢の祈り』が、なんだかとっても面白かった。
学校だといじめられ、家だと虐待され、どこにも居場所のない女の子が連続殺人犯に祈りを託す、という話なんですけれども、グロさを突き抜けたせつなさを感じたなあ。
最近はとじこもり度が上がってて、あんまり外出しません。そもそもDVDボックスなんかを買っちゃったからお金ないんだよ~(苦笑)
でも、もうすぐ夜想ギャラリーで三浦悦子とやなぎみわの二人展をやるようなので楽しみ。二人とも大好きだし。あと、天野可淡の写真集が復刊されるので、それもほしいなぁ。
でも欲望があるのは元気な証拠ですよね。よしよし。
本屋さんで『アンジュール』を読み、家で『不思議な少年』を読み返して、おうおう泣いてしまいましたよ…… おおおうううう。
最近妙に涙もろくていかん。さすがに本屋さんだと自制が働くので声は出しませんでしたが、絵本を握り締めて泣いてる女はさぞかし怪しかったろうと思う。『不思議な少年』は家だったので、何も考えずに大声でわんわん泣きました。すっきり。
『アンジュール』は車の窓から捨てられた犬が、ひとりの少年に出会うまでを台詞なしのデッサンだけで綴った絵本。でも、鉛筆で書かれてる犬のちいさな影が…… 泣けるぜ。
『不思議な少年』は元からかなり好きというか、『火の鳥』『おろち』と似た人間ドラマの傑作です。ドラマチックではない、ただ人間が生きていく、その様を見ながら独白される「人間は不思議だ」という言葉が非常にディープ。二巻収録の『タマラとドミトリ』、三巻『末次家の三人』が特に泣けます。
前者はいつか未来の辺境、愛も無く「一族最後の生き残りだから」というだけの理由で結婚させられた少女が、夫ただ一人にしか出会わなかったという人生を描いた物語。『末次家の三人』は平凡な人生を送るサラリーマンがその人生の意味、家庭の意味を問い直すという物語。
「人間はこれでいい」という圧倒的な肯定感が、なんつうか、いい。ドラマチックではなく、平凡で、どこにでも存在するような当たり前の人生でいい。それを見つめた少年の、「人間って不思議だ」という独白が非常に重い。
最近、ドキュメンタリ系の本を読んでて、社会の罪とか人生の意味とか悩むんですけど、やっぱり、最後に救ってくれるのは『嘘』なんだよな。物語が人間を救ってくれる。現実にありそうな、現実に存在しない、ほんのすこしの『嘘』がふりかけられた物語が、心を救ってくれる。
『物乞う仏陀』『さよなら、サイレント・ネイビー』『黄泉の犬』さらにメンタルヘルス系の作品、『卒業式まで死にません』なんかを読んでてやりきれない気持になった後、フィクション作品…… 『パーマネント野ばら』なんかを読むと、やっぱり、救われるんだよなぁ。
人生は一回しかない。だから、ほんのちょっとの嘘が欲しい。「けれどそれすらも幸福でした」という一行の嘘が欲しい。
……あと、こっそりDXページを更新。あれ、読んでる人いますか?(と、こっそりと聞いてみる)
『楽園の知恵』はいろんな媒体で発表された短編をあつめたアンソロジーなんですが、奇才牧野修節が全開という感じでなんともいえませんね。牧野修は日本ホラー大賞で本格デビューとなったため、ホラー作家の印象が強いですが、今回はハヤカワSFシリーズJコレクションから出てる作品なのでSFかもしれない。
巻末を見ると『SFバカ本』で発表されたという作品が複数入っているんですが、これがどれもわけのわからん作品で最高でした。神秘学から魔術の歴史をたどり、それがクトゥルフの秘儀にたどりついて黙示録の時代を迎えるまでを『演歌』になぞらえて表現した『演歌黙示録(エンカ・アポカリプス)』、三流ポルノ風世界改変言語『インキュバス言語』を授けられた中年男が世界中をポルノに改変した上(惑星をメス奴隷調教! ブラックホールがよがり泣き!!)に世界を再創造してしまう『インキュバス言語』あたりが個人的にツボにハマりました。
まるで狂気の妄想のようなわけのわからん世界観を、ほとんど日本語を破壊するすれすれまでいった文体で記述するドライブ感には、なんとなく、夢野久作を彷彿とさせるものがあります。『ドグラ・マグラ』とかの狂気っぷりに近いものがあるというのか、悪文なのか確信犯なのか分からない妙な文体が近い。もしも夢野久作が現代に生きていて、SFを書いたら、きっとこんなんだろうなぁと思わせるものがあるなあと思いました。『ドグラ・マグラ』はSFだと思いますけど……
で、『宇宙衛生博覧会』はやっぱりエグ系ナンセンスSFアンソロジーです。『楽園の知恵』つながりでナンセンスSF読みたいーと思って借りてきたんですけれども、これもなんだかバッチイというかアホらしいというか…… こういうバカSFって、なんとなく、たまらない味わいがありますね。
基本的にバカな話は大好きなので、ナンセンス系都市伝説とかが大好きで、唐沢俊一も好きなんですが、こういうエロ・グロ・ナンセンス的センスもSFマインドなんだなーとSFの裾野の広さにちょっと感動してます。
あと、購入をずっと悩んでいた山本弘『アイの物語』を結局購入。某様のブログで絶賛されていたので……
山本弘は基本的に好き、というか妖魔夜行時代のファンなのですが、だんだん読んでて年齢と感性がずれてきたというか、この人の「心はいつも16歳」は洒落でもなんでもないんだなぁとちょっと思う。大人の知性と16歳の感性。どこまでも人間の正義と知性というものを信じ続ける楽観性というか明るさというかが、なんとなく少年の心を感じさせるな、と思うのです。少年の心というか、特撮とかを安っぽく見せつつ、非常に魅力的に見せ続けている『子供のこころ』というものがあるよなぁと。
読んでみたら高校時代に読んで感動し、掲載雑誌をずっと保管してた『ときめきの仮想空間』が収録されててびっくりしました。これ、とうとう本になったんだなぁ、って感じです。
これは本来DガープスというTRPG企画の付属短編小説だったんですが、単体としても十分に読めますね。仮想空間でのボーイ・ミーツ・ガール。でも、オチを見てから本文を読み返したくなるような仕組みがよく出来てるなぁと。これで感動したあたり、自分がSFを好きになる下地はあったのかもしれない。
まだ全部は読んでないですが、前半の短編はとりあえず懐かしいです。あとは後半が面白いと評判なので楽しみ~。
レビュー書きたい本はある…… でも好きすぎて書けないってことは本当にあるんだな、と今最近実感してます。
でも、出来れば近いうちに『ラギット・ガール』のレビューというか、感想かなんかをまとめたいなーと思ってます。そしてまた知り合いに買わせるぞ。楽しみ。(笑