オリジナルサイト日記
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ここ半年くらい完全に生活をひっぱりまわしてくれた、《遊戯王GX》がもうじき完結するからね!
最近、またオリジナルも書きたくなってきたし、ぼちぼちオリジサイトも更新復帰でしょうか…
二次創作→オリジ→二次創作… というペースで小説を書いていて、あたらしいジャンルへと移動するたびに、目の前にあたらしいステップが出てくるなー、と最近思います。
ミスフルからオリジナルに移動し、それからオリジナルからGXへ行って、そのたびにあたらしい課題が目の前に出てくる。自分がステップアップしていくというのは純粋におもしろいことですが、けっこう自分の枠とか癖も見えてくるのがこまったもの。
私は、《家族関係》もっというなら《親子関係》ってものを、ものすごく、テーマとして扱います。
《親になりきれない親》や、《子どもでいられなかった子ども》ってものを、負の形(失敗と挫折、死)って形で書くにしろ、正(救済、希望、自立)って形で書くにしろ、ここからどうしても逃げられないんだよな… GXではその部分に課題をもったキャラクターがいたため、彼にスッコーンと落ちて、そっちにばっかり拘泥してた気もします。
弟に、「姉は一回、自分のテーマを書きつくして、それを乗り越えられないかためしたほうがいいじゃないの?」といわれたのですが… 難しいなあ。自分のテーマをどこまでも追求したいかっていわれるとそうでもないんですけど、私はこれに取り付かれてるのもまた事実なんですよね。
「恋愛」とか、「友情」を書きたい人はずーっとそれを書いてていいのに、「親子」ってテーマにこだわってるとなんか未成熟に見られるのは不本意だ(笑
最近、三原ミツカズ《たましいのふたご(下)》とTONO《チキタGuGu》の最終巻を購入しました。三原ミツカズとTONOさんって実力的には逼迫、っていうか正直TONOさんのが上手いと思うんですが、絵柄でかなりお互いの立場が変化してますよね… 漫画家の実力ってやっぱ絵なんだなー(しみじみ
でも今回の二冊だと、三原ミツカズに軍配。というか、《チキタGuGu》は、非常に高いハードルへと挑戦し続けた意欲作だったんですが、ラストになってうまく落としそこなった印象がありました。まあでもしかたないと思う。勇気ある失敗は臆病な成功にまさる、ってなもんで。
《たましいのふたご》は、悲惨な死をとげた二人の子どもが幽霊となり、たくさんの《たましいのふたご》たちの元へと現れるという物語です。
クラシカル・ロリータ(王子ロリ)風の服装のアレックスと、メタモとかハートE風のロリータ(ただし本編だとスリップ・ドレス)という格好のリーカ、それぞれアメリカ人とドイツ人であり、それぞれ《悲惨な死を遂げた》《片目を喪失している(それぞれ理由は違う)》という以外にはあんまり共通点がなかった二人が、下巻では、上巻の狂言回し的立場からうってかわって、それぞれの死の理由やその物語を語ることになります。
《たましいのふたご》の下巻は、不妊に悩み奔放な双子の妹へのコンプレックスを持った春陽という日本人女性と、かつて児童心理学者でありながら己の無力さゆえに現在は職を退いているテオ、という二人の出会いが、アレックスとリーカの物語に二重写しになります。
アレックスとリーカが、いかにも三原ミツカズ風の「親からの愛・理解を得られなかった子ども」であるのに大して、子どもだった過去から、「母になれない自分」に葛藤する春陽のキャラクターはなんか新鮮でしたね~。
「上手に子どもでいられなかった子ども」と、「親としてふるまえなかった親」ってのは、実は、セットになってるもんだ…ってことは《Doll》のころからも書いてあったテーマなんですが、こうやって正面からとりあつかったのは初めてじゃないか?(もっとも、私は三原ミツカズ全作品を追いかけてるわけじゃないですが…)
テオが春陽に対して、「子供は親の道具じゃない/けれどねハルヒ/親も子供を産むだけの道具じゃない」と語りかけるシーンは、むちゃくちゃ感慨深かったです…
そして、アレックスの「いちばんこわいこと」はまだしも予想できましたが、リーカのソレは驚いた。マジでびっくりした。ストーリーテラーとしての才能が出てると思いました。
うってかわって《チキタGuGu》。
これは、「人食い」という人間を殺し喰らうことになんのためらいも持たない存在と、エゴを持ち等身大である「人間」ってもんを対比させて、「殺すこと/殺されること」をものすごくディープに描いていた意欲作でした。
妖怪退治の一族であったシャンシャン一族は、内実は権力欲とエゴの塊で、自分たちに必要がなくなったとき、メンバーであった少女を陵辱することすらためらわない。
温厚で有能であった老皇帝が、それでも死の恐怖ゆえに暴君と化し、善良で愛すべき存在のまま、大量虐殺へと手を染めていく。
冷酷で、人でありながら「人食い」である存在をもっとも親しく思っている少年は、かつて、”生き残るため”におこなっていたとある行動のために存在すら否定されて、家族全てを殺され、己の存在まで滅ぼされそうになった。
どこまでも悲惨な物語と、哀しみや苦しみを背負った人間たちの連鎖で… 正直、TONOさんのポップな絵柄でないと、とても見てられないような内容がけっこう多い(苦笑) 絵が下手だーと言われながら、実際、この絵でないとキッツイ作品を書いてるのも事実なのですよねえ。
たくさんの人々との出会いの末、”人食い”だったラー・ラム・デラルは、「人間にも心がある/心があるものを殺して食うことは出来ない/けれど人を食わないと餓えて死ぬ」という究極の葛藤に追い込まれます。そんで、ラーと共に生きてきた主人公のチキタも、そういう矛盾と、あと、絶対的なタイムリミットにたどりつくことになる。
そんでまあ… 最終的にはこの作品は、とってつけたようなハッピーエンドにたどりつきました。
正直、TONOさんはこのエンディングに納得してないだろうなー、と雑誌掲載時にも思ったんですが、やっぱり、ラストあたりだとものすごく葛藤したみたいですね。(そういう部分も茶化して書く作風の方なんで、シリアスなところは分かりませんが…)
どう頑張ったって万事丸く、とはいかない話を書いちゃうTONOさんだから、ここまでながーく書いてきて、キャラクターにも愛着があり、読者からも悲惨なエンディングなんて望まれていない作品をどうやって終わらせるのか… ってところには、そうとう困ったんじゃないかなあ。
でも、最終的には、どれほどむごたらしい現実であっても、「許す」という一言を口にしたい…という作家さんだからこそ、こう終わらざるを得なかったのかな、と思います。
最近発売された《ラビット・ハンティング》の二巻がものすごい傑作だったから、まあ、これはしかたないのかなーと思いつつ、ちょっとさみしい… でも、ラストでクリップがちょっと救われた風だったのは、私は嬉しかったです。
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