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今更語るような事項でもないのですが、語る機会があったので軽くまとめ。

801と一口に言っても今は裾野が広がりすぎているので、一概に語れないというのが、まず、大前提。キッチュでチープなBLもあれば、私小説的な二次創作のヤオイもあり、一種ジェンダーSFの世界へとつっこんだ思弁的な同性愛ファンタジー、とにかく幻想文学の領域に留まっている少年愛、とすべてがごった煮になってるのがまず現在の801界の現状です。ひとくくりにしろというのが無理です。
まあ、強いて言えば《ミステリーとは何か》みたいなものでさ……
ミステリファンの某方によると、「面白いものはミステリで、面白くないものはSFにしとく」という噴飯モノ(笑) というかまったく同じことを当時のSFファンも言ってたような話があるのですが、真面目な話、801の魂を持った異性愛モノもあるし、どう考えても801的な要素を欠いた恋愛モノも、この世界にはあるのです。

でも、なんで女性が強いて男同士に萌えるのか? そして、女性向けにかかれた創作物ではなく、一般に少年向けとされる作品が801二次創作の対象となるのか。

ざっくりとした話だと、まず、801の最も前提となる部分は、「801に登場する男性キャラクターは、男ではない」という部分です。
まあ、ここは書き手によって非常に左右されるところで… いわゆる商業BLの世界だと、「非常にリアルなホモ」が好まれる傾向にあります。ここの世界の人たちは、ふっと気付くとオコゲになっていたりする(笑) けれど、そういう世界でも、気付くと性的志向がゲイの男性だけが存在し、しかもそれが日常的に受け入れられてまったく違和感が無いという設定が成立していたりします。
その世界にも、現実における、完全な意味でのジェンダー・セックス・セクシュアリティすべてが男性、というキャラクターは存在しません。だからそういう世界に女性が登場すると、良くも悪くも非常に存在感が出てきてしまう。女性にとって、ジェンダー・セックス・セクシュアリティすべてが女性である、というキャラクターを書くのはたやすいことだからです。そして、《たやすい》がゆえに、そういったキャラクターは恋愛物語の主役になりそこねます。
801における本質というのは、ようするに、既存のジェンダーをリセットすること… にあると私は思っています。
男性=非・女性 であって、世間で言うところの《男》と、801に出てくる《男》は、まったくのベツモノです。逆をいうと、801における主要登場人物は『非・女性』であればなんでもよく、そこになれてしまった読者・作者は、複雑な手続きを経て、キャラクターからジェンダーというルールを取っ払うことを覚えてしまいます。
つまりいわゆる、『女体化』というものですね。

「女の子はかわいい。女の子って楽しい。おしゃれも出来るし、やっぱりかわいいし、それにセックスしてて違和感が無い。妊娠も結婚も楽しめる」
「でも、私が好きになったこの子は、男の子なんだよなぁ… でもいいや。私は《この子》が好きなんだから、多少身体を変えても、《この子》っていう個性と魅力は失われないよね」
こういう腐女子以外には理解不能な不可思議思考回路(笑) も、うっとおしいジェンダーの取っ払いの過程、と考えると多少は理解しやすくなると思われます。
少年漫画における男性キャラクター→801創作における二次創作的なキャラクター(ジェンダー・セクシュアリティがとっぱらわれる)→還元的に女体化された二次創作キャラクター(ふたたび味付け程度にジェンダー・セックス・セクシュアリティが与えられる)
という過程が成立する。

恋愛モノにおける「男女のお約束」というものは、面白さではありますが、同時に、実は非常にうっとおしいものでもあります。
ある程度仲がよくなると異性としてのお付き合いを意識する、カップルとして認識されると周囲からの目線が高速的になる、女性・男性にはそれぞれ演じるべきとされるロールが存在する… 最低でも、ヘテロな恋愛モノには、こういうルールが存在します。
これを男女で書いて否定することもできなくはないのですが、往々にしてカジュアルになりそこないます。「男女のロールを振り捨ててお付き合いをしている二人」を書くことは、そこが焦点になってしまい、他の物語性を失ってしまうのです。
もっとこう、さりげなくお互いのことが大切だという淡い気持ちが恋愛感情へと移行していく様を、お互いへの過剰な独占欲が生み出す哀しい結末を、永遠に二人は一緒に暮らしましたという童話的なハッピーエンドを、《現実》という野暮なルールをほっぽりだして楽しむ方法はないものか?
……そこに、大昔頭がいいのか、あるいはおかしいのかした誰かさんが、「だったら思い切って、双方を女性/男性じゃなくしちゃえばいいじゃないの」と言い出したのです(笑)

しかし、何も女性性を否定しないといけないというのが、腐女子諸淑女たちの深刻な性的違和感に繋がっているわけではありません。
いまや、《女らしさ》《男らしさ》というルールを否定するというのは一種のジャンル小説における文脈のようなものになっていて、《ミステリにおいて謎が出てくる必然性》くらいの意味しかない、と思ったほうがいいでしょう。
多くのカジュアルな腐女子諸嬢は、普通に少女漫画も読むし、ドラマに出てくる恋愛だって楽しみます。さらにいうなら、いわゆる女性エロ漫画家のなかには、同時に801も好き、ショタも好き、という人が多数います。ようするに彼女らの性的好奇心(紙の上での!)を充たすには、既存のジェンダーの枠だけだと足りない、そういう世界にまで、801ってのは拡散しちゃってるのです。
ただし、傾向としては、腐女子諸嬢たちは、一般的に、過剰な女性性というものにあまりいい印象を持っていません。その意識は深刻なトラウマに根ざすものから、「あんまり化粧とか好きじゃない」という単純なレベルまで多彩です。ときに、腐女子諸嬢におけるファッションが、ドラァグ・クイーン化(女性性の過剰なパロディという意味での仮装)になってしまうのもそのせいでしょう。そんな腐女子諸嬢にとって、女性性ってのはアタッチメントで取り外しの出来るものであり、自分の本質においてさほど重要なものではありません。
「となりの801ちゃん」という漫画が非常に優秀だった(苦笑) のはその点で、基本的には、女性性というのはあくまで日常生活をおくるための「オーバーボディ」「きぐるみ」にすぎない、のです。

…とまあ、なんか堅苦しい文章で語ってきたですけれども。
ここ最近のドラマだのなんだのを見ていると、ジェンダーというものの撹乱ってもんは、来るとこまで来たよなー、という気がしないでもないです。
「花盛りの君たちへ」「山田太郎物語」という、共にジェンダー性をあえて混乱させてる作品が一緒に放映されている… 双方の作品に出てくる女優の男装、俳優の女装は正直そうとう不自然だと思うのですが、「そういうもんだ」と思える下地が、一般視聴者のみなさんにまで出来上がってしまっているのです。漫画読者という、より小さな枠だけではなく。
戦隊モノだと、たいていは司令官は女性もしくは人外(二足歩行する猫とか、ハムスターとか)で、いかにもマッチョで男性的なタイプというのはかなり昔にいなくなってしまいました。最近だとデカレンジャーの司令官ドギー長官が非常に父権的で優秀、良い意味での男性性をすごく持ち合わせたキャラクターでしたが、彼は犬でした(苦笑) そういうキャラクターを演じて説得力のある俳優さんは、もはや犬しかいないってことなんでしょうか。
とはいえ、まだまだ少年漫画の世界にはジェンダーの拘束というものは強く、非常に男性的なキャラクターは探せばいくらでもみつかります。でも、そういうキャラクターだからこそ、あえて《逆転》することに面白さを感じる。というよりも、原作時点でジェンダー的な不安定さを抱えたキャラクターをさらに転換させると、なにがなんだか分からなくなるという危険性のほうがおおきいでしょう。ある程度症状が進んでしまった腐女子諸嬢などは、男性さえいなければ、いっそ、女の子だけの世界も悪く無い! と百合とかにちゃっかりと理解を示してしまっているのにもそれは象徴的だと思われます。

とまれ、もともとジェンダーってのは不安定で社会的、そして、そこにやっかいさと面白さが共存しているものです。
世の中には何かを勘違いしている人がいて、「男女平等はそれぞれの性別の魅力をなくす」と思っている人もいるみたいですが、それはとんでもない間違いだと私は思っています。だって、性別の存在しない801の世界にも、ジェンダー性ってものは確実に存在し、その面白さは十二分に表現されてるんですから!
要するに、問題は、「セックス(身体的性別)が男/女なら、ジェンダー(社会的性別)も、セクシュアリティ(性的思考)も、すべて男/女であるべきだ」という固着的な思考にあるのでしょう。これだと組み合わせは二通りしかありません。でも、すべてを自由に選択しうるようになれば、人間は、最低でも8通りの性別を持ちうることになるのです。ここにさらに、現実には『両性愛(バイセクシュアル)』『無性愛(Aセクシャル・性欲を持たないこと)』が加わり、さらにバリエーションは広がります。そうなったとき、仮に、『ジェンダー』で『女性』を選択した人が、女性独特の面白さ… ファッション・しぐさ・社会的な立場、などを享受しようとしなくなるかというと、そんなわけがないでしょう。だって、わざわざ『女性』を選んだってことは、その人はそれを存分に楽しみたいと思ってるってことなんですから。

まあ、世の中が実際にそうなることは、なかなかないと思います。現実にはジェンダー・セックス・セクシュアリティの間には相関関係があって、簡単にパズルのようにあちこちを切り貼りすることは出来ないのですから。
でも、ファンタジーの世界だと、そんなことが出来ちゃっている。そうして世の中には、その楽しみを覚えてしまっている諸嬢が思ったよりもたくさんいる…
それだけのことなんじゃないかなぁ、と私は思うのでした。
以上、一腐女子の私見でした。


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調子が超悪くてなかなかアクセスできんですよ。どうしたんだ忍者さん。
ここ最近、いい作家にちょこちょこ出会えていてすごく幸せです。すごくHITだったのがリービ英雄!
かなり純文学畑の人なので、ちょっとなかなか手に取らないタイプの作家さんですが、母語を完全に日本語以外で小説を書いている(そして一定以上の評価を受けている)というむちゃくちゃ稀有な作家さんです。エッセイストとかだとたまにいるけど、作家というと珍しいからな。
しかも、リービ英雄は言語学者として大学に勤務しているというだけあって、「ことば」というものをとても尊敬して丁寧に扱っていることが一目で分かって好感が持てます。英語と日本語の違いというのが、簡単な翻訳で超えられるような壁ではなくて、『英語で考えること』と『日本語で考えること』の根本的な違いに触れているのがすばらしい。
『千々にくだけて』は9・11について実際に彼の体験を書いた半ノンフィクションですが、英語的思考と、日本語的思考のなかで引き裂かれる一人のアメリカ人の姿を描いていて、非常に胸に迫るものがあります。ぶっちゃけ、真面目な話、「9・11がアメリカ人にとって衝撃だった」ということが、こんなによくわかる本は無かった。
すごく印象的だったのが、『ground zero』を『グラウンド・ゼロ』を訳し、それから、『爆心地』と日本語に変換してしまうときの、強烈な違和感です。
アメリカにとって、『ground zero』は『ヒロシマ』であり、『ナガサキ』であり、戦争を終わらせるための正義の鉄槌だったはずだった。でも、それがいきなりアメリカのど真ん中に『ground zero』が出現してしまった。正義の鉄槌だと叫びながら突撃してきた飛行機によって。そして、『ground zero』の訳は『爆心地』――― 日本人にとっては、特別な感情を喚起せずにはいない単語です。
貿易センタービルと『ground zero』、そして、『グラウンド・ゼロ』と『爆心地』の間で引き裂かれる。その強烈な現実剥離感? ってものにすごく強烈なインパクトを感じました。ここまで言葉を上手に使える人ってのはいない。そして、すごく羨ましい。
日本語だけでも、言葉の世界ってこんなに豊穣なのに、他の言葉も知ることが出来たらどれだけだろう。でも、リービ英雄くらい外国語に精通するには、むちゃくちゃ努力と才能と好きがないとダメだろうからなあ。ちょっとがっかり。

それはともあれ拍手の返信です。
8/18>
鉛のお姫様が一番気になってしまいました。>
おお、日記のネタに反応をいただけて嬉しいですよ☆
いちおうは定石どおり(笑 鉛をヒロインにすえて書きたいですが、黄金とかはどういう性格なんでしょうね。メルヘンの基本ストーリーだと黄金がヒロインになるのでしょうが、これがおとぎ話になるとガラスがヒロインになる。そしてうちの趣味だと鉛になるv
鉛の心臓をもったお姫様…… きっと冷たくて鈍い、非人間的な心の持ち主なのでしょうが、そういうキャラこそ我が萌えです。現在ちょっと二次に手間取ってるためUPはけっこう先になるでしょうが、気長にまってていただけるとうれしいですv

四泊五日で長野に行ってきました!
いつも行ってる場所なので観光はゼロ(……)しかし涼しくてまさしく避暑! という感じでした。あ、強いて言えばアウトレットモールにいってお洋服とアクセサリーを買ったかな?
長野ならば蓼科。夜中になると真っ暗で、道路の脇に鹿が立ってます。白樺が茂る下に黄色い花がいちめんに咲いています。蝉の声しか聞こえません。水はつめたくておいしいし、真夜中にはもう、おどろくほど星が光ります。
祖母が星好きだったので、「あれがアレクトゥールス、あれがアンタレス、あっちが北斗七星だけど地平線に隠れて見えない」といろいろと教えてくれました。おりしも真夏、天の川は真上です…… 織姫星と牽牛星がくっきりと天の川に隔てられているのが見えました。なるほど、あれじゃあ会えないなあ、と思うくらいくっきりと天の川。
星を見てたのはせいぜい30分くらいだけど、流れ星が8つくらい流れたし、人工衛星が光りながら通っていくのも見えました。なんだか分からないけど惑星も出てました。アンタレスが赤く光ってるというのも分かりました。天体観測は初めてじゃないはずなのにすごくいい気分になれます。寝転がったアスファルトがあたたかかったのもまたよし。
星がいっぱいありすぎて星座が分からない、というのも乙なもんです。
ほかにはまあ温泉入ってみたり、ホテルの廊下をちょろちょろしてるヤモリをからかってみたり(ごめんなさい)、真夜中の2時くらいにホテルの中と庭をうろつきまわって、そこにいる鯉が寝ていないのを見て「魚っていつ寝るんだろう」と思ってみたり。いかにもリゾートって感じでした。
でも甲州ワインはあんまり美味しくない…… ね…… 甘すぎて深みに欠ける。なんかジュースみたい。デザートワインとしてはいいけど、食事中に飲むんだったら、同額のチリワインとかイタリアワインとかのほうが美味しい。
でもそこらのおばちゃんが売ってた傷物の桃、七個で500円は死ぬほど美味かったです。種無しブドウもむちゃくちゃ美味かったです。素質はあるぞ。がんばれ日本のワイン。

休暇中にサイトを除いてくださった方々は、ありがとうございました(ふかぶか)
拍手返信です!
10日 東欧社会のなんともいえない薄暗さと叙情的な雰囲気と閉塞感が双子がもつ閉塞感を増すのですかしら。 >
おかげさまで旅行楽しんできました。ありがとうございます。
東欧で双子といったら、忘れちゃいけないアゴタ・クリストフの『悪童日記』を思い出しました。これは一巻しか読んでませんがたしか東欧だったような……? あれ違ったっけ。
双子で東欧というと、そういう薄暗い叙情というのもありますし、あと、事実として『チャウチェスクの子どもたち』や、ナチのお鉢を継いだ人体実験の歴史があるというのも関係あるかなと思いました。東欧の独裁政権下で生まれた子たちが今丁度大人になっているころでしょうしね……
ナチの人体実験だと、双子の研究に有名なメンゲレがいます。優生学に血道をあげていたメンゲレは、双子の身体をくっつけて人造的にシャム双生児を作る、あるいはオッドアイの研究などに熱中していたそうです。行き過ぎた科学は魔術にも似る、といったところでしょうか。
ナチ+双子というと、小川洋子の『リンデンバウム通りの双子』も一種忘れがたいものがありました。あのあたりのミステリアスさ、何か、見てはいけないものを見てしまったような奇妙な魅力というのが、東欧に漂う前キリスト教的な空気とくっつきあうのかもしれませんね。……と、思いました。
あ、双子萌えで思い出したのですが、ナルキッソスの逸話の異伝がすげえ萌えます。
ナルキッソスは自分しか愛さなかったため恋の病でエコーを殺し、その罰を受けたといわれていますが、異説だとエコーとナルキッソスは双子の兄妹だったという話もあるのだとか。妹が死んで声しか残らなくなったとき、ナルキッソスは妹の面影を求めて水鏡を眺め暮らし、ついには水死して水仙となったそうです。こう思うといいなあー! と、思います。

8/13 ラプンツェル~白雪姫まで読みました。とても面白かったです。>
おおっ、ありがとうございます。そこまでだとなんだかんだで完結してませんね…… すいません(汗)
実は白雪姫は一回完結稿まで書いたんですが没りました。シリーズモノは初めて書くのでなにかと悩みが多いです。短編だと気を使わない部分に神経が必要ですものねえ。むっかしいものです。
なので、そういう風に「面白い」といってもらえると一番嬉しいですv 何か凡庸なファンタジーな気もしますが、自分なりに書きたいものをかけるように頑張ります。今後ものんびりお付き合いをいただければ幸いです。


柄にもなく小説の書き方ガイド等を読んでみました。

……役に立たねぇぇぇぇ!!!

オールタイムベストレベルのエンタメ系のガイドブックはそれなりにいいんですが、最近出版されたライト系の小説ガイドの役に立たないことと言ったら!
「お役立ち」で有名な『新人賞の取り方教えます』シリーズとかはすごくいい。見ていてもグッとくるようなアドバイスがあります。でも、最近のヤツは正直どうなのよ。

「小説を書くにはまずたくさん本を読まなくてはいけません」

……本を読まずに小説を書く阿呆がいるか!!!
フランスパンも喰ったこともない人がフランス料理を作りたい、ギターの演奏を聴いたことの無い人がロックをやりたいというくらい間違ってると思います。いや、でも最近はそういう人もいるのかな? どうだろう……?
ですが、とりあえず初心に帰って文体模写とかをしろ、というアドバイスは的確でした。あまりに衝撃的な出だしにあやうく本を地面に投げつけたくなりましたが(立ち読みです)、後半はけっこういいことが書いてありました。
昔から不思議に思ってたのですが、あのテのガイドは、なぜかかならずエンタメ系のほうが厳しいことを言っていて、純文学系のほうがぬるいことを言っています。
エンタメは売れないと話にならないから厳しいのでしょうか。でもそもそも『純文学』のテーマってのがあいまいなので、なんともいえない。
最近山本弘のエッセイを買ったのですが、「SFは純文学を目指そうとして腐った」と指摘している章があり…… でも私はそういうSFのほうがぶっちゃけ面白い。思弁小説というジャンルでしょうか。あまりたくさん読んでないですけれども、『リスの檻』とかドキドキしましたし。
ウィキをみたら谷崎の作品が純文にあげられていて、ええー、えー、という気がします。あれは情痴小説であって純文にしてはあまりにエロに走ってないかな? でも、マンティアルグというフランスの大御所作家さんも純文。いや、あれはフランス文学かな。最近一気にメジャーになった小川洋子も純文…… 純文……?(悩 
ロートレアモンも純文。ちょっとまて。ここまでくるとさすがに信じません。全部ただのポルノじゃん!!
マンティアルグはフランス文学者なんですが、かなりの量のエロ小説を書いています。有名なのが『閉ざされた城の中で語る英吉利人』。陰鬱な雰囲気がたまらない、古典的なユートピア系ポルノ。ロートレアモンは『マルドロールの歌』。残虐酸鼻を極める描写を華麗に描いた連続詩。
小川洋子だって、『薬指の標本』だしさー、『ホテル・アイリス』だしさー。
幻想文学は純文と仲がいいのか、なにも考えないで漁っていると、気付いたら純文の畑の中に居て、「あれ?」となることも少なくないみたいです。ジャン・ジュネか…… やっぱりポルノじゃないか……

純文学系ポルノ、好きです。
「大好きだ!」と言ってもいいくらいです。
特に、サドの諸作品のような、「すごく壮大な大金持ちがお城に美男美女を集めて凄まじい規模の乱痴気騒ぎ」みたいなストーリーが面白い。『O嬢の物語』に出てくるロワッシーの館、『閉ざされた城の中の英吉利人』のド・モンキュの城あたりが超ツボだったのですが、とにかく枝葉末節にこだわりつくすあたりが良い。建物の規模から、着ているものから、食べているものまで。フィクションじゃないと到底出来ないレベルの蕩尽を味わえる、それが純文系ポルノの特徴でしょうか。
メジャーどころはごく少なく、『一万一千本の鞭』、サドの諸作品、『毛皮を着たヴィーナス』あたりが有名どころかなあと思います。それ以外となると入手が困難に。でも日本モノはそこまで危険視されていないせいか、野放し状態で普通に読めると思います。『眠れる美女』とか、『春琴抄』とか。
『眠れる美女』にインスパイアされたガルシア・マルケスの『我が哀しき娼婦たちの思い出』も読んでみたい。

正直、何がなんだか分からなくなってまいりました。

強引に〆。


『ぼくらの』というのはすごく欝な設定のアニメらしいですね。
実物を見たことはないのですが、主題歌、『アンインストール』を入手。繰り返し聞いております。

”アンインストール この星の無数の塵のひとつだと いまのぼくには理解できない”
 恐れを知らない戦士のように振舞うしかない アンインストール”

数ヶ月前のSFマガジンに、なんとなく、心にすごくひっかかる評論があったので、それについて。
今の世の中には(それは現実かどうかはおいておいて)、ものすごくサバイバル感ってのがある、っていう話です。そして、いわゆる『セカイ系』はすでに時代遅れになっていて、今、もっとも最前線にある感覚ってのは『サバイバル系』だと。
例としてあげられていたのは、『デスノート』と、『コードギアス』、『バトルロワイアル』でした。
前者2作は、有能で傲慢な主人公が、革命家として世界の変革を求める話。でも、作中だと彼らの人格には不完全で稚拙な部分がある、ということが指摘されているとその文は続けます。つまり、「殺される前に殺す」という論理は不完全であり、決して正しい解答ではない。でも、最後に若年層から圧倒的な支持を得た『バトルロワイヤル』を入れると、話がとたんに変質します。

もう10年も前、90年代の末に、『平坦な戦場でぼくらが生き残るということ』、という言葉がありました。
なんていうのか、つまり、どこまでもフラットに続いていく『世界の終わり』。映画が終わった後に流れるつまらないホワイトノイズのような世界。そこで、自分自身を見失うことなく、心を失うことなくサバイバルをしていくためにはどうすればいいのか…… そんな話。
でも、今の『リアル』は、そんな問いかけを許すほど、生ぬるくなくなってきている。
『平坦な戦場』を90年代のリアルだとしたら、00年代のリアルは、『今から殺しあいをしてもらいます』でしょうか。「ぼくってなんなんだろう」などと問いかけている暇があるか? そうやって立ち止まっているやつなんてさっさと撃ち殺せ! あいつを消さないとぼくが、あるいはぼくの大事な誰かが消される。そうやってAKを握り締めてサバイバルをしなければいけない。

こういう世界だと、『弱い』というのは、悪以外の何者でもありません。
闘う力を持たない、闘う意思を持たないものは、敏感にそれを感じ取ります。丸腰で戦場に放り出された彼らは、とにかく、必死で逃げ惑う以外に方法を持ちません。周りの人間がすべて敵だったなら、徒手空拳の自分が、どうやって生き残れるか? 必死で逃げ、隠れ、息を殺して嵐が過ぎるのを待つしかない。いつ過ぎるか分からない嵐を? いつ見つかるかも分からないのに? 
……でも、だからって、外に出て行ってそれを問いかけるというのは愚かなことです。だって、相手は銃を持っている。見つかった瞬間に、自分は、撃ち殺されてしまう。

戦いをやめさせたいですか? どうやって? ガンジーみたいに武器を持たずに行進しますか? たぶんクレイモア地雷で爆破されるのがオチでしょうね。戦いをやめさせたいなら、大事な人を守りたいなら、もっと強くならないといけない。もっと強く、もっと、もっと。自分に逆らうもの、『悪』であるものたちをすべて従えて、己の圧倒的な力の前に屈服させないといけない。それが始めて、世界を平和にするたったひとつの道。
……あなたは、そこまでの力を持ち、他の『正義』を掲げた人々と、戦い続ける力がありますか?
無いのなら、あなたは死ぬでしょう。死ねば、結局ほかの『弱い』人々と同じです。鉛玉を脳天にぶちまけられ、脳漿をまきちらして死ぬならまだましでしょう。穴だらけになってもまだ死ねず、這いずり回って必死で彷徨った末に、苦痛と絶望の中で終わるかもしれない。

『ブラックラグーン』とかも、なんとなく、これと似た匂いを感じますけどね……
殺さないと殺される。だから殺す。相手がこちらを殺そうとする前に殺す。理由は何も無いのです。「相手が私を殺そうとするから」 それだけが、戦う理由です。

”あの時最高のリアルが向こうから会いに来たのは
 僕らの存在はこんなにも単純だと笑いにきたんだ”

最高のリアル、それは『生』と『死』。
人間が体験しうる極限のリアリティ。そして人間にとって、最も強力になりうる欲望というのは、『死にたくない』でしょう。セックスするのも、ものを食べるのも、呼吸をするのも、眼が見えるのも音が聞こえるのも、すべてを還元すれば『体』を生かすため。それ以外に理由は無い。
生をも凌駕する誇りを得たものは、あるいは生を維持するのが不可能なほどの苦痛を得たものは、もしかしたら、『ただ生きるよりもさらによく生きるため』に、命を引き換えにする方法を見出すかもしれません。
でも、人間は呼吸する。心臓を動かす。血液を循環させている。生きるために。

―――すべての幻想を否定した末に出てきた真実の『リアル』ってのは、ずいぶんと単純です。

自分は無力でちっぽけで、誰かが殺そうと思えば簡単に殺されてしまう。
たった一本のロープで、包丁で、一台の車で、ホームから背中を突飛ばす手で、あるいはデパートでも購入できるようなシンプルな毒物で、死んでしまう。
「側にいるだれかが自分を殺そうとしない」という最低限の安心感が、社会を成り立たせる最低限の契約です。
これさえ奪われたとき、あとには何が残るのか…… 今後が楽しみであります。

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