オリジナルサイト日記
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よしながふみ『大奥』第二巻、諸星大二郎『グリムかもしれない スノウホワイト』の漫画二冊と、伊東乾『さよなら、サイレント・ネイビー』を購入しました。すべて読了。
なんか図書館で借りてきた本と読了スピードが違う…… とはいえ『テヘランでロリータを読む』は未だに読み終わっていないので、単にお金出してるからとかいう問題じゃないかも。
『大奥』は相変わらずのフェミニズムSFっぷりです。
男性しか罹患しない非常に致死率の高い伝染病が蔓延し、人口に占める男性の割合が異常に低くなり、男女の立場が逆転する…… というなんだか懐かしい設定(昔よく似た設定のSFがあった)ですが、今回はちょうどその病気が社会に定着し始める時期を扱っているため、さらにフェミニズム色が濃いです。純愛なんて売り込み方をされてるからって騙されてはいけませんよ(笑)
フェミニズムっていう言い方は古い&バックラッシュを食らいやすいので、『ジェンダー』と言った方が正しいのかもしれないけど、やっぱり女性の側から取り扱ったジェンダー論はフェミニズムになりますね。
内容については個人的に読んで確認して欲しい子がいるので触れませんが(帰国を待つように(笑))、(BL+プロ作家)×非BL作品=フェミニズム という公式になにやらTONO『カルバニア物語』を思い出してしまいました。
そもそも作品がドラマ化もされ、ストーリーテリング力には定評のあるよしながふみですが、この人は本来スラムダンクのやおい同人誌で活躍していた同人誌作家です。で、引き合いに出したTONOさんはキャプテン翼の同人誌作家。世代だと一世代ずれてますが、同じく同人誌出身のやおい作家だという意味だと共通してます。
『カルバニア物語』はカルバニアという架空の王国を継いでしまった10代の女王タニア、同じく公爵家の後取り娘である男勝りのエキューの二人の少女を中心に回ってるややコメディ風味の王宮ファンタジー、なんですが、これが読んでみるとあら不思議フェミニズムの本なのです。フィクションに包んで恋愛なんかもあつかっちゃうため、あたりもやわらかで、声高に主張するところのない雰囲気が『大奥』と似てるかも。
『大奥』二巻では男性、女性双方からのパワーハラスメントの暴力性についてが歴史上の人物名を借りて描かれ(このいじり方が実に上手に『歴史改竄SF』してて面白いです)、『カルバニア物語』だとそれに加えてジェンダーの束縛からの脱却の可能性についてがソフトに書かれています。
現代的なセクハラの本質は『パワーハラスメント』、権力を持った男性、現状容認派の女性からの社会的な圧力である。さらに、『大奥』の場合はそこに男性側からの嫉妬の問題が加わっているということが生々しく描かれています。
この辺の『嫉妬』とか『圧力』あたりの感じと、なんていうか登場する(善玉)男性キャラクターのフィクションっぽいセンシティブさが、『やおい』してるよなーって感じがすごくします……
私はいちおう『やおい』をやってる(た?)腐女子ですが、本質的にはそっち方向の人間ではありません。どっちかっていうと男性向けのほうが好きだからより重症かも。自分自身の『女性性』への憂鬱度、という意味で、です。
社会的な女性性への期待がどうしても憂鬱、でもそれと積極的に戦ってく気力もあんまり無い、っていう潜在的フェミニストって、意外と腐女子には多い気がします。
知り合いの至言で「男性にだったら思う存分暴力をふるっても後ろめたくないからやおいが好き」というのがありますが、そうなんですよねぇ。自らの感じてる社会的な圧力をフィクションとして描いてすっきりしたい、けど女性キャラクターに対する暴力は容認できない、という二律背反が腐女子をセンシティブ、かつ暴力的なやおいに走らせてるよなという気が最近します。
「恋愛しろ」「恋愛はすばらしい」「男性/女性はこうあるべきだ」という物語から脱却して思想を構築することはできないけれど、無意識にそれにたいする固着と嫌悪の両方を感じている。それで世の中と妥協していこうとすると、ほどほどに『女性』を演じながら裏でこっそりとやおいを書く腐女子が出来上がります。
ちなみに『やおい』と書いて『BL』と書かないのは本質的に双方でファンタジーの度合いが違うと思っているからで、大半の場合は『やおい』のほうがより生臭い、切れば血の出るような痛々しいリアリティを持っている…… ような気がします。というのも『やおい』を書いてるのは大半が素人だから、かつ、世間の需要に迎合する必要がないせいで細分化しがちだからなんでしょうが。
『やおい』『BL』共に、自分自身への内的外的な違和感と、それを受容してくれる他者への出会いが繰り返し描かれます。『BL』の場合はそれをゲイ社会というカタチで還元して普通の社会性へ着陸しますが、『やおい』は延々と思春期的に痛みを伴った違和感の段階にとどまり続けることが多い…… と思う。
(『BL』はあんまり読まないので、詳しい人には別の意見もあるかもしれません。それにやおい界もBL界も広いので、双方互換的な作品もたくさんあります。)
自分の内面を理解してくれる誰かの登場、というファンタジーが、なんていうか、フィクションでしかありえないレベルにセンシティブな攻キャラひいては男性キャラクターの登場に繋がります。『大奥』二巻がなんとなくやおいっぽいと思ったのはそのせいで、『傷ついた内面を持つキャラクター』と『それを受容し癒すキャラクター』が登場し、しかもそのどちらがどちらとも言い切れないって感じがやおい的だと思ったのですね。で、『大奥』の場合は受/女性であるところのキャラクターの『傷』の原因が彼女の女性性への外からの攻撃にあるということが明言されちゃってます。これはなんていうか、『やおい性』のある作家だから書いちゃったって感じがすごくする。自らのフェミニズム性を自覚した腐女子が、さらに『性差のあまり必要無い世界』で実力を磨ぎ、とうとうその伝家の宝刀を抜いちゃったな、って感じの作品です。
やおいを経てオリジナルに行き、やおいの関係ない作品を書いてるオリジナル作家って、なんていうか、やっぱりどことなく『女性性』の取り扱い方が普通の作家とは違うな、という気がすることが多いです。
漫画家の今市子は客観的な恋愛の出てくる『家族モノ』は書いても主観であるキャラクターは男性としか恋愛しないし、『デルフィニア戦記』の茅田砂胡は一種の超人主義に走って登場するキャラクターが潜在的にすべて男性というすごい世界にたどり着いてしまいました。
ってゆーか、『やおい』ってのはどうしても自らの女性性への違和感というモノから逃げるためのアジールとしての存在であるわけで、大人になってもそこにとどまり続けている人、しかも一般向けのプロでやれる実力で『あえてやおい』の人は、最終的には自らの女性性について悩み続ける、つまり潜在的なフェミニストでありつづけるもんなのかもしれません。
よしながふみはどっかのインタビューで自らのフェミニズム性について語ってたらしいから、結局、自覚的にフェミニズムを書く、しかもそれをSFとして、恋愛モノの殻を被らせて書く、というすごい道、でもある意味とても元腐女子らしい道を選んだのかなーって気がします。
でもここまで書いてきて、これってすっげー『古いやおい論』『古い少女漫画論』を踏襲してるだけって気がしてきた…… とはいえ、自分は結局萩尾望都とか大島弓子が好きな人なので、屈託の無い『今どきのBL』にはイマイチ。
やっぱり『やおい』はセンシティブで痛いものであってほしい、という感じですかね。で、このセンシティブさ、痛さ(客観的に『痛い』って意味じゃないよ)、ってのはなんとなく男性向けにもある感じだよなーって気がしてきたんですが、だけど、男オタクがメンズリブやジェンダーに走ることは少ないってのが不思議。『電波男』本田透氏もなぜかジェンダーに行かずにオタク論に行ってしまったし。やっぱりジェンダー論はまだ男の人を救済してあげられないんですかね。どうなんですか、男性のオタク諸氏?
なんか図書館で借りてきた本と読了スピードが違う…… とはいえ『テヘランでロリータを読む』は未だに読み終わっていないので、単にお金出してるからとかいう問題じゃないかも。
『大奥』は相変わらずのフェミニズムSFっぷりです。
男性しか罹患しない非常に致死率の高い伝染病が蔓延し、人口に占める男性の割合が異常に低くなり、男女の立場が逆転する…… というなんだか懐かしい設定(昔よく似た設定のSFがあった)ですが、今回はちょうどその病気が社会に定着し始める時期を扱っているため、さらにフェミニズム色が濃いです。純愛なんて売り込み方をされてるからって騙されてはいけませんよ(笑)
フェミニズムっていう言い方は古い&バックラッシュを食らいやすいので、『ジェンダー』と言った方が正しいのかもしれないけど、やっぱり女性の側から取り扱ったジェンダー論はフェミニズムになりますね。
内容については個人的に読んで確認して欲しい子がいるので触れませんが(帰国を待つように(笑))、(BL+プロ作家)×非BL作品=フェミニズム という公式になにやらTONO『カルバニア物語』を思い出してしまいました。
そもそも作品がドラマ化もされ、ストーリーテリング力には定評のあるよしながふみですが、この人は本来スラムダンクのやおい同人誌で活躍していた同人誌作家です。で、引き合いに出したTONOさんはキャプテン翼の同人誌作家。世代だと一世代ずれてますが、同じく同人誌出身のやおい作家だという意味だと共通してます。
『カルバニア物語』はカルバニアという架空の王国を継いでしまった10代の女王タニア、同じく公爵家の後取り娘である男勝りのエキューの二人の少女を中心に回ってるややコメディ風味の王宮ファンタジー、なんですが、これが読んでみるとあら不思議フェミニズムの本なのです。フィクションに包んで恋愛なんかもあつかっちゃうため、あたりもやわらかで、声高に主張するところのない雰囲気が『大奥』と似てるかも。
『大奥』二巻では男性、女性双方からのパワーハラスメントの暴力性についてが歴史上の人物名を借りて描かれ(このいじり方が実に上手に『歴史改竄SF』してて面白いです)、『カルバニア物語』だとそれに加えてジェンダーの束縛からの脱却の可能性についてがソフトに書かれています。
現代的なセクハラの本質は『パワーハラスメント』、権力を持った男性、現状容認派の女性からの社会的な圧力である。さらに、『大奥』の場合はそこに男性側からの嫉妬の問題が加わっているということが生々しく描かれています。
この辺の『嫉妬』とか『圧力』あたりの感じと、なんていうか登場する(善玉)男性キャラクターのフィクションっぽいセンシティブさが、『やおい』してるよなーって感じがすごくします……
私はいちおう『やおい』をやってる(た?)腐女子ですが、本質的にはそっち方向の人間ではありません。どっちかっていうと男性向けのほうが好きだからより重症かも。自分自身の『女性性』への憂鬱度、という意味で、です。
社会的な女性性への期待がどうしても憂鬱、でもそれと積極的に戦ってく気力もあんまり無い、っていう潜在的フェミニストって、意外と腐女子には多い気がします。
知り合いの至言で「男性にだったら思う存分暴力をふるっても後ろめたくないからやおいが好き」というのがありますが、そうなんですよねぇ。自らの感じてる社会的な圧力をフィクションとして描いてすっきりしたい、けど女性キャラクターに対する暴力は容認できない、という二律背反が腐女子をセンシティブ、かつ暴力的なやおいに走らせてるよなという気が最近します。
「恋愛しろ」「恋愛はすばらしい」「男性/女性はこうあるべきだ」という物語から脱却して思想を構築することはできないけれど、無意識にそれにたいする固着と嫌悪の両方を感じている。それで世の中と妥協していこうとすると、ほどほどに『女性』を演じながら裏でこっそりとやおいを書く腐女子が出来上がります。
ちなみに『やおい』と書いて『BL』と書かないのは本質的に双方でファンタジーの度合いが違うと思っているからで、大半の場合は『やおい』のほうがより生臭い、切れば血の出るような痛々しいリアリティを持っている…… ような気がします。というのも『やおい』を書いてるのは大半が素人だから、かつ、世間の需要に迎合する必要がないせいで細分化しがちだからなんでしょうが。
『やおい』『BL』共に、自分自身への内的外的な違和感と、それを受容してくれる他者への出会いが繰り返し描かれます。『BL』の場合はそれをゲイ社会というカタチで還元して普通の社会性へ着陸しますが、『やおい』は延々と思春期的に痛みを伴った違和感の段階にとどまり続けることが多い…… と思う。
(『BL』はあんまり読まないので、詳しい人には別の意見もあるかもしれません。それにやおい界もBL界も広いので、双方互換的な作品もたくさんあります。)
自分の内面を理解してくれる誰かの登場、というファンタジーが、なんていうか、フィクションでしかありえないレベルにセンシティブな攻キャラひいては男性キャラクターの登場に繋がります。『大奥』二巻がなんとなくやおいっぽいと思ったのはそのせいで、『傷ついた内面を持つキャラクター』と『それを受容し癒すキャラクター』が登場し、しかもそのどちらがどちらとも言い切れないって感じがやおい的だと思ったのですね。で、『大奥』の場合は受/女性であるところのキャラクターの『傷』の原因が彼女の女性性への外からの攻撃にあるということが明言されちゃってます。これはなんていうか、『やおい性』のある作家だから書いちゃったって感じがすごくする。自らのフェミニズム性を自覚した腐女子が、さらに『性差のあまり必要無い世界』で実力を磨ぎ、とうとうその伝家の宝刀を抜いちゃったな、って感じの作品です。
やおいを経てオリジナルに行き、やおいの関係ない作品を書いてるオリジナル作家って、なんていうか、やっぱりどことなく『女性性』の取り扱い方が普通の作家とは違うな、という気がすることが多いです。
漫画家の今市子は客観的な恋愛の出てくる『家族モノ』は書いても主観であるキャラクターは男性としか恋愛しないし、『デルフィニア戦記』の茅田砂胡は一種の超人主義に走って登場するキャラクターが潜在的にすべて男性というすごい世界にたどり着いてしまいました。
ってゆーか、『やおい』ってのはどうしても自らの女性性への違和感というモノから逃げるためのアジールとしての存在であるわけで、大人になってもそこにとどまり続けている人、しかも一般向けのプロでやれる実力で『あえてやおい』の人は、最終的には自らの女性性について悩み続ける、つまり潜在的なフェミニストでありつづけるもんなのかもしれません。
よしながふみはどっかのインタビューで自らのフェミニズム性について語ってたらしいから、結局、自覚的にフェミニズムを書く、しかもそれをSFとして、恋愛モノの殻を被らせて書く、というすごい道、でもある意味とても元腐女子らしい道を選んだのかなーって気がします。
でもここまで書いてきて、これってすっげー『古いやおい論』『古い少女漫画論』を踏襲してるだけって気がしてきた…… とはいえ、自分は結局萩尾望都とか大島弓子が好きな人なので、屈託の無い『今どきのBL』にはイマイチ。
やっぱり『やおい』はセンシティブで痛いものであってほしい、という感じですかね。で、このセンシティブさ、痛さ(客観的に『痛い』って意味じゃないよ)、ってのはなんとなく男性向けにもある感じだよなーって気がしてきたんですが、だけど、男オタクがメンズリブやジェンダーに走ることは少ないってのが不思議。『電波男』本田透氏もなぜかジェンダーに行かずにオタク論に行ってしまったし。やっぱりジェンダー論はまだ男の人を救済してあげられないんですかね。どうなんですか、男性のオタク諸氏?
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