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ドラマ『ヒミツの花園』に出てくる『花園ゆり子』って、和田慎二+CLAMPですか……?
作品は『忍法ロマネスク』で男性少女漫画家(このあたりで和田慎二)で四人ユニット(このあたりがCLAMP)。絵柄も和田慎二っぽい。誰が考えたのか知らんが、マニアックな設定です。CLAMPは少女漫画だけじゃなくてなんでも書くけどな~。最近出てたCLAMPのもこな先生が書いた着物の本、出てくるデザイン着物が舞台衣装のようでかっこよかった。
以前からずっと欲しかったトーキングヘッズ叢書の最新刊を入手しましたよ! トーキングヘッド叢書はサブカルチャー&モダンアートマガジン(……で、あってるよね?)なんですが、おもしろそうな特集をやってるときに買ってます。
今回の特集は『アウトサイダー』。アウトサイダー・アートについての記述があるかなぁと思って買ってみたのですが、アウトサイダー・アートだけじゃなくて、障害者によるパフォーマンスについての記事が多くて面白かった。障害者の参加するワークショップのうちアート色の強いものから、障害者プロレスから障害者SMまで。障害者プロレスは数年前から聞いてたというか、まだ政治・右翼色の出てくる前の『ゴーマニズム宣言』に記事が載っていた記憶があります。障害者SMは、以前のトーキングヘッズ叢書『奴隷の詩学』で記事を乗っけてた卯月妙子も話をしてたなぁ。時代の流れなのでしょうか。『セックス・ボランティア』って本も出たし。
正直、このあたりのことは現代ではけっこう大きなタブーになってる部分だと思います。障害者についての話は、何故か、「イイ話」しか出てこないなーというか。
かつて、障害者ではなく、『少女』がタブーだった時代もあったらしいですね。
少女というのは侵されざる聖域で、決して汚れた手で触れてはいけない存在だったらしい。久世光彦の作品なんかには、まだ少女がタブーだった時代についてのお話が書かれてます。でも今や少女というのは一種のセックス・シンボルと化している。そして、その時代には、今はタブーの対象と化している精神障害者なんかが今とはぜんぜん違う扱いの存在だった、と。
ちなみに四肢喪失者に対してセックスアピールを感じる人のことを、『アンプティ』というそうです。そして、一種のフェチが最終的には対象との同一化を望む(ハイヒールフェチの人が、自分でハイヒールを履いちゃうような)のと同じように、アンプティの最終的な形は自ら自分の四肢を切り落とすところにまで達するのだとか。オタク的にフィクションとして楽しむのではなく、実際に体験しちゃう本物のフェティッシュの世界だと、現在、肉体改造はけっこう一般的になりつつあるみたいですね。肉体改造がファッション化してるというか、一般人であっても、タトゥなどの延長線上で軽度の肉体改造をやっちゃう人は珍しくない。ボディピアスとかだけじゃなく、スプリット・タンなどの肉体改造や、スカリフィケーションなんかをやってる人も、探すと案外簡単に見つけることができます。ちなみにスカリフィケーション:傷をつける、焼印で焼く、薬品で焼くなどの方法を使って皮膚に模様を書くというタトゥに類似した肉体改造。私はこれで有名な施術者の人が、ショー形式でブランディング(焼印)の実演をしているのを見たことがあります。
私はちょっぴりアンプティのケがあるかな? というか、フリークス趣味があるかなぁと思います。でもこれって意外と一般的というか、ネットの海なんかを泳いでいると、四肢喪失だったり肉体改変だのを取り扱ったポルノ的画像をよく見かける。当然、ファッション的な部分もあるとは思いますが、自傷者の一般化なんかと一緒に考えてみると、バーチャル化の時代に伴った皮膚感覚の変容ってのも関係あるのかなぁと思います。
私が自分がアンプティであること、ていうかフリークス趣味であることの自覚を促してくれた体験は、三つほどあります。
一つはごくシンプルに、かの有名な映画、トッド・ブラウニングの『フリークス』を見たこと。そして二つ目は老人福祉施設での介護実習を受けたこと。ここまでは一般的な体験ですが、最後の一つは、電車のなかで激しい自傷の傷を持った人を見たことです。
男性だった(この時点でかなり珍しい)と思うのですが、骨格、筋肉としては、とてもきれいな腕をした人でした。きれいな男性の体は、骨が美しいなぁと思うのですが、肘や手首のきれいなその腕には、手首から肘にかけて、横の傷跡がびっしりと刻まれていました。そして、たぶんタバコを押し付けたのと思しい丸い火傷が、二つづつ、縦に並んでました。
普通だったら、いろいろと感想があると思うのですが…… なんていうか、私はその『ラギット感』にけっこう衝撃を受けました。
ラギット感―――ざらざらした感じ、ちくちくした感じ、ひりひりした感じ、靴とかのサイズが合わずに足に靴擦れができるような感じ。皮膚の表面が刺激されて、自分の輪郭を明確に自覚するような感じとでもいいましょうか。その人も傷のある腕を堂々と出して電車に乗っているあたり、自分のその『ラギット感』を人に対して主張したいってところがあったんだろうなぁと思います。それが病的なことだと思う人もいるだろうし、場合によっては嫌がる人もいるだろうに、あえて、傷を見せる。実際にその人を見たのはそれ一回こっきりだったのですが、私は、その『ラギット感』のあまりの雄弁さに圧倒されました。
この場合の『ラギット感』ってのは、ある意味で、バーチャルの対語…… みたいな感じで使ってます。
理屈にならない肉体感覚ってのは、バーチャルの世界だとありえないものです。何を話していても上滑りする感じ、無意味な言葉だけで内容の無いやり取りをする感じのあるバーチャルと違って、『痛み』というのはどうしようもなく明確です。『痛い』という感覚は非常に原始的なもので、偽りようが無い。それを外に向かって主張する『傷跡』、しかもあきらかに自ら望んで付けたと分かる『傷跡』というもののリアリティに…… 変な意味で魅力を感じてしまったのでした(苦笑)。
まあ、『自傷』と『障害』、ついでいうと『老い』ってのは全部別のものです。ある程度自覚選択的に自分に付けるもの、本人の意思には関係の無いもの、それに誰もがいつか被るもの。共通するのは、『ラギット』であるという部分です。でもどれにしろザラザラ、チクチクしてて不愉快で、どうしようもなく自分と世界との齟齬を感じさせる。でも、その『痛み』というのは、『そこに自分が存在すること』というものを自覚させてくれるものでもあります。
たとえば胃が痛ければ、そこに『胃』があるってことを自覚することだし、献血に行ってチクリと針を刺せば、そこに自分の皮膚があり、血が流れているということを自覚させてくれます。
これは非常に自己中心的で、相手のことを考えない考え方だと思うのですけれども、『ラギット感』のある相手と向き合うということは、同時に、自分自身との差を強力に自覚させられ、『私』というものの輪郭を再認識させられるという体験でもあります。実際に体験したことは無いけれども、もしも私が腕の無い人と向き合い、無くなった腕の断面に触らせてもらうことが出来たなら、『自分には腕がある』ということを強力に感じさせられることでしょう。足の悪い祖父と一緒に歩いていると、『自分が歩いている』ということがどういうことなのかを感じさせられます。骨の動きが違うし、筋肉の動きも、体重の移動の方法も違う。
「由仁子さんはSとMが混ざってる」と人にいわれたことがあるんですが(笑) まあ、ようするにこういう自己確認の手段として『痛み』を捉えているという部分があるせいなんだろうなぁ。実質的にSMプレイにふけったことなんて一回も無いのですが(それが普通だ)、小説とかの中だと執拗に精神的、肉体的な『痛み』を追求する部分があるなぁとは思います。でも、それはぼやけて見失いがちな自分の『輪郭』を再確認することであり、それこそが『痛み』の持つ奇妙な快感の本質なんじゃないかと思うのですよー。
ただまぁ、この場合の『痛み』ってのは自分で制御できるレベルのものに限るというのがポイント。別段他人から暴力振るわれたり、病気になって痛い思いをしてもうれしくはありません。(笑)
この辺の表現に関しては、飛浩隆氏の作品の中で雄弁に語られてますね!
『このSFがすごい! 2007』の中のロングインタビューだと、そういう自傷感覚とかについてが細かく語られていてちょっと感動しました。今日買ってきたトーキングヘッド叢書の新刊の中での日野日出志論にもちょっと似たことが書いてあったなぁ。同じく、牧野修の作品にも、そういう皮膚感覚の変容とか、狂気というものについてが繰り返し語られます。
あとちょっとずれるかもしれないのですが、小川洋子作品の中にも、そういった細かな『ラギット感覚』ってのが存在し続けてると思います。現実との違和、病や死や老いへの偏愛…… エッセイの中で小川氏は『小説とはすでに死んでしまった人と対話するように書かれるべきである』と書いていたのですが、至言だと思います。
飛浩隆氏の傑作、『ラギット・ガール』には、体中の皮膚組織の疾患によって、常に全身の皮膚に痛みやかゆみなどの不快感を感じ続けている――― そのことによって、何もかもを完全に記憶することが出来るという完全記憶能力を持った女性が登場します。また同時に、自分自身のアイデンティティの境界線を保持するために『自傷感覚』を利用する、という癖を持った女性も登場します。外見的には片や非常に醜く、片や非常に美しい二人の女性が『痛みによってアイデンティティを保持する』という一点において重なり合う、というところにSF的な感動を感じました。まさしく、センス・オブ・ワンダー。
『わたしの痛みをあなたが感じることはできない』というのは、二人の人間が出会ったときにお互いの融合を阻む最も大きな壁なんじゃないでしょうか? もしも『わたしの痛みをあなたも感じることができる』のなら、その二人はどこまでが自分でどこまでが相手なのかがわからなくなってしまうんじゃないかって気がします。
人間は動物です。皮膚感覚っていう一番原始的な感覚で区別される、というのが、相互不理解の第一歩。中途半端にお互いへの温い共感が蔓延するバーチャルの世界だと、そういった『痛み』『歪み』『きしみ』の感覚が非常に新鮮に感じられます。
とまれ、まあ、『アウトサイド』『インサイド』ってのは、こういう辺りで感じるものなんじゃないかな、と思ったしだいでございます。