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昨日はTRPGのGMを超ひさしぶりにやってきました。
会場の押さえが後手後手に回ってて、けっこう大丈夫かという感じだったんですけれども、ベテランプレイヤーのみなさまにフォローしてもらってなんとかシナリオは普通に完結。次回以降の伏線も入れておいたので、できるだけ近いうちに二回目をやりたいなぁ……
とまれ、Web拍手返信です。
23日にメッセージを下さった方、見てる方にわかりにくいかなと思ったので、申し訳ありませんが、拍手の全文を掲載させていただきます。大変興味深いご意見をありがとうございました。日記でああいうことを書くと、たまに面白い反応をいただけるのがうれしいv
日記での、物語の世界観の時代につれての変遷、すごく面白く拝見しました。デスノートなんかは私はドストエフスキーの罪と罰のテーマの現代型かなという感じが一番していたんですけど、世界観的には確かに絶対神といわれればなるほどと。
私の一神教と多神教の理解は浅いんですけど、エヴァンゲリオン以降の作品は一神教の系譜のままなのかなあ、とも思います。それにしても、日記の見解を見ていて感じたのですが、この20年で自己肯定することが難しくなったというか、肯定することに飢えているような。
個人的にはそれに加えて、最近のゲームやアニメ、漫画全般通してジャンルが違っても周囲を気遣ったり思いやったりする性格のキャラクターのポジションが昔とは違ってきたなと。
旧ビックリマンや聖矢、セーラームーンでは「やさしい」人で主役や主役の仲間としても一目を置かれていた気がしますが、エヴァンゲリオンでは気遣いというよりも気にしすぎで自分に自信が持てないというようなマイナスにつながって、恋愛ゲームで恐縮ですが最近の遙かなる時空の中でなどではむしろ優柔不断で煮え切らないような感じに描かれているようで捕らえ方の変遷などを感じてみました。
今も昔も「優しい」キャラは確かにかわらずいるのですが「優しさ」の種類が狭い個人主義的な先ほど創作世界観についての日記についてウェブ拍手でコメントしたものです。長すぎてきれてしまいました。すいません。個人主義的な色が年々強くなっているなあと、興味深く思っているところですと続けようとしていました(笑)。
コメントありがとうございました~。非常に興味深く拝見させていただきました。では、コメントを。
絶対神>
日本ではいわゆる正統派キリスト教的な概念が存在しているとは思いづらいので、この場合の唯一絶対神信仰というのは非常に解釈の浅い、なんていうか、「この世のすべてを支配している存在がいる」という考え方だと思っていいと思います。いわゆる「宇宙創造神」みたいな? とにかくこの宇宙にはそれを創造した存在がどこかにいる、という考え方です。
この世界はルールの存在するゲームで、そのゲームのルールを設定したもの、そしてゲームの遂行者であるチェスプレイヤーが存在する、みたいな…… そういう非人間的な神によっての支配というもの、一種の運命論みたいなものを感じてる人がけっこういるのかな? と思います。ただまぁ実は「鏡の国のアリス」なんかにもそういう存在は出てくるので、日本唯一だとは思いにくいですが……
自己肯定>
これはすっごく感じます! 特に、オタク領域と女子においては重なりやすいメンヘル領域なんかだと、ものすごく自己肯定感や『居場所』の確保の難しさが語られてますよね。
「自分はここにいてもいいのだろうか?」ってのがけっこうどの物語においても主要なテーマとなっている…… 過去の作品だとどんなキャラクターであってもそういうことは考えもしなかったようなことが、一番前提になっている、というあたりになんともいえないものを感じます。エヴァなんかはその疑問が繰りかえり繰りかえし語られてましたもんね。
「十二国記」の番外編、「魔性の子」だと、居場所のなさ感というものが非常に重要なテーマとして語られていました。「十二国記」自身、世界設定の中核に「選択せずに生まれてくるということの理不尽」ってものが組み込まれてると思うのですけれども、それに対して非常に敏感に反応したファンが多いということには、まあ、こういう世の中なんだよなぁという感じがします。
自分自身が希薄である、居場所が無い、生きていく希望が湧かない、ってのはどちらかというとメンヘル領域……まあ、すごく俗っぽい言い方をするとリストカットしたり大量服薬を繰り返したり、女の子だったら売春に走るような人の間で非常によく語られてるテーマなんですけれども、昔はそれが一部の人間のみの訴えだったのが、現在だとものすごく一般的になってる。誰も彼もが「自分の居場所が欲しい」と迷子になってる状態ってのに、なんていうか、時代性を感じます。
詳しい人によると、そういう時代性ってのは別に現在に特有のものではなく、第二次世界大戦前夜の北半球なんかでもよくある話だったらしいんですけどねぇ。時代が豊かさになれきって、新しい道への進歩が閉ざされたと感じるとき、人は行く先の分からなさを感じてしまうでしょうか。
ちょっと理論的な文脈からは外れますが、精神的にも肉体的にも何事も「食べても食べてもおなかが空くの」じゃなくて、「食べている最中」こそが一番幸せなのかもしれません。あるいは「食べたいと思うこと」こそが幸福なのかもしれない。おなかが一杯というのはもしかしたら本当の幸福とは別なのかもしれない。
過食症の理論というか、無限に食べ続けたい、という欲求こそが自然なのでしょうか? 肉体が満たされると精神が飢える、そして、ありもしない精神の飢えを満たすためにうろうろとさまよう…… としたら、これは餓鬼道なのかもしれません。むなしいなぁ。(笑
優しさの変遷>
そういや、最近の作品だと、「優しい」登場人物の扱いが変わりましたね~。
一見優しそうに見えるタイプってのは、たしかに、その優柔不断さゆえに迷いの中に立たされたり、非常に厳しい決断を迫られて可哀想なことになることが多いような…… 本当の意味で優しいとされるキャラクターってのは、一見はぶっきらぼうだったり乱暴だったりする外見をもってることが多い気がします。
これってもしかしたら上の「居場所のなさ」とちょっと連動する話なのかもしれません。「優しさ」を求められる相手のキャラクターってのが、昔よりも切実な状況に立たされているというか。ちょっと情けをかけられただけで自力で立ち上がれた昔のキャラクターと違い、今のキャラクターってのはちょっとやそっとの「優しさ」だと自分では立ち上がれないほど傷ついていることがおおい。そういう人相手だと優しくするのも大変です。相手の人生を背負う覚悟がないと、優しくすることもできません。そういうあたりが「優しい子」への厳しい状況へつながってる気もします。
うー何か頭がしっかり働かないので、このあたりで失礼します…… 追記を思いついたらまた書きます。