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無意味にメロウな気分になれます。>タイトル
ダミアってのはシャンソンの古い歌手で、当時、「ダミアの前に歌手は無く、ダミアの後にも歌手は無い」といわれた一種のカリスマ。非常にしゃがれた低いアルト、メロウを通り越して陰鬱な歌声が特徴。
日本でも(昔は)有名だった『暗い日曜日』や『人の気も知らないで』なんかは今なお色あせないすばらしい名曲であります。
個人的には、『愛のきずな』(原題:『鎖』)という、愛が枯れて憎しみに代わってもなお離れられず、転がり落ちるようにして地獄へと堕ちていく恋人たちの歌がたまりません。
シャンソンは基本的にけっこう好き。でも、あんまり聞かない。歌手もピアフとダミアくらいしか分からない。あとはイヴ・モンタンとか。なぜならフランス語が分からないから……(黙)
ちなみに、『赤い彗星』シャア・アズナブルの元ネタは、シャンソン歌手であるシャルル・アズナブールだそうです…… びっくりだ!!
メモメモです。
移行対象ってのは発達心理学の権威ウィコニットが提唱した概念で、要するに、『ライナスの毛布』的存在のこと。
自己愛と他者愛が融け合ったような母親の側から離れ、寂寞とした自立と孤独の世界へと出発するという厳しい旅の途中で、その旅を助けてくれる存在としてあらわれるものたち…… のこと。
(あいかわらず文章書きは、必要以上に叙情的な物言いで困る)
ようするにいつも手放せないぬいぐるみとか、そういう存在? 場合によっては見えないお友達(イマジナリー・コンパニオン)という存在になることもあるのだとか。
ちっちゃな子がいつもぬいぐるみを持ち歩き、話しかけ、まるで生きた存在のように扱っている。そういうのが『移行対象』らしいです。
NHKの『みんなのうた』で、『クマのぬいぐるみ』という曲があるんですが、これがものの見事にそういった存在について語っていてすばらしいです。
”ぼくはクマのぬいぐるみ ひとつうでがちぎれそう 耳がやぶれてそこから白いわたがのぞいている
そうさ 古いぬいぐるみ 五年前のクリスマス パパのサンタクロースがきみのために買って来た
それからずうっと仲良しで いつもいっしょにねむってた だけどきょうからぼくなしで ひとりでねむれる
すこしさびしくて ちょっとかなしくて とてもうれしいよ
ぼくはクマのぬいぐるみ わらえないし しゃべれない
だけどずうっと友だちさ 寂しいときはママ代わり
君はぼくをよくかんだ そしてほうりなげもした なのになきむしのきみは いつも死ぬほどだきしめた
ある日 いなかへいくときは いっしょじゃなくっていやだって だだをこねていたあの日が昨日のようだね
すこしさびしくて ちょっとかなしくて とてもうれしいよ”
移行対象ってのは、『幻想の母親(無限の愛を与えてくれる)』が、『現実の母親(有限の愛しか持たない)』へと移行する間に現れて、心からの思いやりをくれる不思議なお友達です。
とはいえ、彼らはやがては忘れ去られて消え去る運命にある…… といいます。でも、ウィコニットによると、彼らは完全に消滅するのではなく、『リンボ界』とでも呼べる心の片隅に移り住むだけで、ときおり、友だちのためになら顔を出してくれることもあるのだとか。
日本人の小さいもの、可愛いもの嗜好というのは、そのリンボ界への道へのハードルの低さゆえに現れるんじゃないか、と言っていたのが香山リカでした。
日本だと、いわゆる大の大人が『移行対象』的なものを愛好していても、それが度を過ぎなければ社会的にけっこう許容されてしまう。それがいいとか悪いとかじゃなくて、それが日本という土地柄なんだと。
『ぼくはクマのぬいぐるみ わらえないし しゃべれない
だけどずうっと友だちさ 寂しいときはママ代わり』
この一節が、何か、すごく心に沁みたのだなあ。
彼らは、きっと『ずうっと友だち』なのです。どんな人だって、年を取ろうが、男だろうが、親になろうが、罪びとになろうが、心のどこかにきっといて、『ずうっと友だち』でいてくれる。
そういうものについて、書きたいなあ。
はくしゅ。
細魚様>
怖いですよねあの短冊……!! なんか中島みゆきの歌のよーだと思いました。しみじみ。
病院自体がお年寄りのやたらと多い場所なので、推測されるに下手したらお年寄りが吊るしたものなのかと思うともっと怖いよー。いじわるな嫁でも呪っているのでしょうか。
ところでBLですが、まあ、とりあえずまとまった量が出来上がったらUPろうと思ってます。そしたら注意書きでもつければ良いですね。とにかく、ひとりでも読んでくれる方がいるなら嬉しいです。
薔薇乙女熱いまだ下がらず。
銀様がいとしくて、おもわず、『オーベルテューレ』のDVDを買おうかしら計画が持ち上がってます。
しかし原作を読んで思ったんですが、ローゼンって要するにデカルト……?
ってことは、目指すべき至上の少女ってのはデカルトの人形だったといわれるフランシーヌじゃん、そもそもアリスじゃないじゃん、とか思ったり。トランクにいれて持ち歩く人形で、勝手に動いたりしゃべったりする(という噂があった)といえば人形フランシーヌでございます。
フランシーヌってのは、哲学者のルネ・デカルトが五歳の娘フランシーヌが夭逝したのを惜しみ、作らせていつも鞄にいれて持ち歩いていたという伝説の残る人形です。デカルトが部屋でフランシーヌ人形と会話をしていたという伝説も残る不思議なお人形…… しかし、フランシーヌ人形はある日、嵐の船上で、迷信深い水夫たちによって海に投棄されてしまったといいます。ある意味、薔薇人形の元祖だと思うと納得のいく話。
歴史の流れとしては、デカルト→サンジェルマン伯爵→人形師ローゼンと並んでいるのですね。
そのへんの伏線の細かさとかも気になったんだけどなぁ。
ところで私、もしかしたら来週半ばくらいから入院するかもしれません。
持病がけっこう悪化しているので、とりあえずは火曜日にかかりつけの病院で相談して、それからいろいろと決まる予定です。まあ、入院するといってもせいぜいが一週間やそこらだとは思いますが、その間は当然ネットにつなげないため、更新その他もストップになると思われます。
健康な心と体ってのは何よりもの宝ですよねえ(しみじみ) うう、短冊でも吊るして、お願いしときゃよかったかなぁ。
……怖ェ!!(((( ;゚Д゚))))ガクガクブルブル!
ええと、返信です。
7/2 細魚さま>
ウケてくださったようでなによりです(笑)
友人某には「なんかこの学校の連中はもて王のキャラみたいなヤツしかいない」という微妙にコアなネタを噛まされました。大臓モテ王サーガ…… 資料のために読むべきでしょうか。
耕太郎は自分の萌えのためならどこまでも闘う男です。っていうか、漢です。でもそれってどうなんでしょうか。そしていちばん猛のことをちゃんと「男だってば!」と思ってる信が一番意識してるように見えるという謎。
7/5 ぬえ様>
あれ、何が楽しいって、書いてて形容文でなにをやってもいい具合が実はかなり楽しいです。『朱鷺のようなメイドさん』『ブリタニカ大辞典に載せてもよさそうなくらい乙女』。……真面目な小説だと、こんなアホなことは賭けませんw
まあ、おそらく予想されているでしょうが、モモコさんは見た目どおりのお人じゃありませんよ?
とりあえず、耕太郎の期待が木っ端微塵に粉砕されるのを、楽しみにしておいてください(笑
あとえーっとの話。
私は基本、あまり先を考えずにモノを書く癖があるのですが、今、何も考えずに手をつけた話が、そうとう長い上にうちのサイトに掲載していいのか怪しげなシロモノになってしまったので、若干困ってます。
一言で言うと、『BL』で、一部、たぶん18禁的内容を含みます。
そんでしかも長そう……
これ以上連載を増やすのはどうもなぁと思うので、今は掲載は見合わせています。それに、うちは建前上はノーマルのサイトですからね。
私は二次創作だとヤオイで活動していましたし、正直、恋愛モノは別にヘテロである必然性をまったく感じないため、別にホモでもなんでもいいじゃん、って感じなのですが、サイト傾向としてはそうはいかんでしょう。
ヘテロである必然性というのは、「恋愛モノは、しかるべき年齢の男女で書くべきである」という話ですね。
別に極端に年齢が離れてても、同性でも、異種族…… 場合によっては言語コミュニケーション不可能な関係でも恋愛モノは成立しうると思うし、逆にそうであるからこそよりピュアな恋愛モノというものが成立しうるんじゃないかなあという考え方すらあります。
しかし、まあ、これが説得力を持ちうるか、物語として面白くなりうるか、というと話はぜんぜん別。
特にBLってのは、特有の読者層をもちうるジャンルなので、さらに取り扱いが難しくなるのでした。
というわけで、悩んでます。
書くべきものは他にもいっぱいあるのに、わき道にそれててすいません。
多情(小説に対して(笑))ってのは、難しいモンです。