オリジナルサイト日記
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嘘です。
最近の生活があまりのアレっぷりを弟に公開したところ、『ハチクロ』っぽい、と言われました。
外出するのは親に誘われたときか、病院に行くときか、美術館に行くときだけ。そして今日は美術館。
『夜想』+ステュディオ・パラボリカでやってる三浦悦子+やなぎみわの二人展を見た後、渋谷マリアの心臓にて『少女恋の美学』を鑑賞。同行したのは美術部(?)の知り合いYさんとS嬢。その後喫茶でだらだらした後に飲み。なんて非生産的な日常なんだ……。
三浦悦子の”『聖体礼儀』――記憶の饗宴”は新作から旧作までそろった三浦悦子の”義躰”勢ぞろいの展覧会です。部屋そのものはだいたい普通の小学校の教室くらいの広さだったんだけれども、空間そのものの演出の強度が半端なかった……!!
三浦悦子は球体関節人形作家のなかでも、異色の作風で知られている人です。彼女の人形は”義躰”と呼ばれ、しばしば、四肢の切断、あるいは性器や目やその他の皮膚の縫合、さまざまな異物の埋め込みなどを施されて、一種、独特の姿を見せています。いままでの作品だと少女が目立っていた三浦悦子の展示ですが、今回は少年の人形の展示がすごく印象的でした。
黒い長いテーブルが置かれた無造作な空間に、青白い肌、肉体改造を受けた”義躰”がひしめきあい、蝋燭がゆらめき、壁にも貼り付けにされた”義躰”たち、そして、整然と並んだ無数の十字。
同行したYさんは「Baroqueの世界だー」と面白い感嘆のしかたをしていましたが(笑・『Baroque』は異色で知られたアドベンチャーゲーム)、私はひとつひとつの人形を見るのに夢中で会場をぐるぐる回ってました。手足の無いのはあたりまえで、耳まで裂かれた口を縫合された子、二体が下半身でつなぎ合わされて結合双生児のような姿にされた子、歪んだ白い肉だけの子、ダリの絵のように歪んだ足を持つ子、切断されたペニス、縫合されたヴァギナ……
けれども、不思議なのですねぇ。そこまで痛々しい肉体改造をほどこされているにも関わらず、三浦悦子の人形は非常に美しくて、そして、とても哀しいのです。今回ちょっと気付いたのは、今まで気付いていなかっただけかもしれませんが、皮膚に怪我とも自傷ともつかない引っかき傷を持った子たちが何人もいたということです。
アンケートにも書いたのですが、三浦悦子の人形には、自傷と他傷の共犯関係のようなものを感じる気がします。彼女たち、彼たちは、自らの改造を、そして傷を、受け入れているように見えます。けれども『受け入れている』だけで、望んではいない。抵抗の意思はありませんが、けれど、それを自ら自傷的に取り込むことによって、支配されることから逃れようという儚い意思を感じる気がします。
なんていうか、表現しづらいのですが…… 『弱さ』を受け入れた果てにある、一種、奇妙な『強さ』のような。すべてを受け入れ、すべてを認める。それによって暴力を受けることすらも彼女ら/彼らの内的世界に取り込まれて、「私はこれを望んだのです」という言葉が、加害者の意思をも凌駕して、彼女ら/彼らを”義躰”というオブジェへと昇華する。
彼女ら/彼らはひとりひとり個性的ですが、目を伏せていても、あるいはまっすぐにこちらを見つめていても、瞳はとても透き通って透明に見えました。それをなんといったら良いんだろう。美しいというか、可憐というのか。
展示の中に一人、三浦悦子ドールとしてはめずらしい少年の人形で、赤みがかかった銀の髪と、切断された手足を持つ少年がいました。彼が特別に印象的だったのは、三浦悦子ドールとしては珍しく、どことなく挑むような…… 生意気な、というか目をしていたからです。小さな唇、おおきくて透き通った瞳、青白い肌はどの子とも共通していたのですが、その子の目には、どことなく、攻撃的なところがありました。手足も性器も切除された彼になにが出来るわけでもないのですが、「あなた方にこれ以上ぼくから何を奪える?」という、裏返しの強さで挑むようなところがあったような。
あの子のことは忘れられないなぁ。いつか、彼の物語を書いてみたいものです。
やなぎみわは写真家、ていうか現代美術家? おっきな写真が三枚展示されてましたが、これはとりあえずあんまり気にしない。(初見じゃないし) でも、目的の写真集が二冊ゲットできたのがものすごく幸せ。きっとあると思ってたー!!
『少女地獄極楽老女』『Fairly Tale 老少女綺譚』を入手。大好きなシリーズである『My Grandmothers』と『寓話シリーズ』がすべて収録! うわあああいままで見たかったけど見られなかった写真がある!! しかもきちんと印刷されてる!!
『My Grandmothers』は20代前後の若い女性に「あなたの50年後を想像してください」という設問をして、その50年後の「未来の祖母たち」を特殊メイクなどで撮影するという企画。『寓話シリーズ』は童話をテーマにしながら、少女と老女の相克を描いたシリーズ。どっちも最高でした。帰りの電車で思わず読みふけってしまった……
『My Grandmothers』を読みながらなぜか泣いてしまった帰りの電車(恥ずかしい)。なんで泣けたんだろうなぁ。泣き要素なんてどこにもないんですが。不思議。
『寓話シリーズ』は童話パロディとしては傑作。これ、自分的にシュヴァンクマイエルの『アリス』と並べたい。でも、シリーズの中にはなぜか『アリス』は無く、代わりにガルシア・マルケスの『エレンディラ』が入っていました。これはたぶん理由は簡単で、アリスには老女が出てこないからなんだろうなぁ。この中に出てくる童話はすべて少女と老女の物語です。狼の腹を切り裂くと抱き合った少女と老女が現れて、老女が切り続けるラプンツェルの髪はうずたかく積みあがって山となっています。鏡とりんごを間に挟んで向き合った少女と老女はどちらかどちらなのか判別が付かず、そして、少女エレンディラをベットに縛り付ける無慈悲な老女は、老女の仮面をかぶった少女なのです。
こういう切り口を思いつくアーティストっていう人種はすごいよ。やっぱりまともじゃない。老女であるということと少女であるということを鏡合わせにした世界。何か新しく開眼したというか、こういう刺激をずっと受け続けたいなあと思いました。現代アート大好きだ。
えーと、以上の実に濃い内容のステュディオ・パラボリカに比べると、マリアの心臓は慣れた場所なのでちょっと気楽でした。
何回も行ってるんでおなじみの人形ってのができてくるのですよねぇ。また来たよ、みたいな。あと、市松人形とかビスクドールって初見だとちょっと不気味なんですが、慣れて来るとなんだかすごくかわいらしいのだなあということが分かってきます。今回は市松人形の展示が多かったのですが、初めてだとみんな同じに見えた顔が、それぞれ個性的でとっても可愛らしかった。
同行したS嬢と、「この子はぽーっとしてそうだ」「この子は生意気そう」「この子はなんとなく商家のお嬢さんって感じ」「この子はお姉さんっぽいね」と評価をして遊んでました。うるさい客でごめんなさい(笑)
とくに三折人形(……って何?)の一体が、傑作だった。実に可愛らしく、また、きかん気の生意気なお嬢さん、って雰囲気で……
「そこのもの、饅頭と茶を所望じゃ」「饅頭はこし餡じゃ」とかいいそうだよね、とか、つぶ餡のを持っていくと饅頭投げつけられそうだよねとか、こし餡を持っていっても半分食べたら「飽きた。つぶ餡の方が良い」とか言いそうだよねぇ、と盛り上がってました。
今回の目玉は天野可淡の少女人形九体だったんですが、どの子も小柄で10代前半風だったためか、普段のカタンドールの迫力というよりも、並べられてることによる個性のほうが際立ってました。端的に言うと『可愛い』。カタンドールは『可愛い』というより『うつくしい』といったほうがいい壮絶さが特徴なんですが、今回の子たちはみんな膝上サイズ、かつ、幼いため、カタンドールらしいダークな魅力を持ちつつも、それぞれ個性的な少女たち、って感じ。みんな一緒に暮らしてそうだよねーとS嬢と人形遊びで盛り上がる。
「この子は絶対におてんばで、誰かのケーキにアマガエルを入れたり、いたずらをいっぱいしそうだ」「いじめられるのはぽーっとしてそうなこの子だよね」「この子が最年長っぽい。お姉さん格だね」「この子はなんだかいつも無表情で何を考えているのか分からなさそう……」って感じ。
いつのまにか、どこから来たのかも分からずに、暗い森の館の中で暮らしている9人の少女たちのお話になってました。屋敷には時計が無数にある部屋があったり、剥製の部屋があったりしてさーとか、様々お話が出来上がる。しまいにゃ少女たちはみんな鉱物の名前がいいね、という話になって、『胆礬(たんばん)』『辰砂(しんしゃ)』『白緑(びゃくろく)』って具合に岩絵の具の名前で…… ってところまで話が発展。そのあたりで彼女たちとはバイバイしました。
この後ケーキを食いつつ酒を飲みつつ、いろいろと話したんですが、長いんで省略。
収穫は様々。やっぱり美術に直接触れるのは良い。そして人形は良い。
ステュディオ・パラボリカだと、これから何回かイベントがあるらしいので、ぜひいきたいなぁ。あとヴァニラ画廊のロマン・スロコンブの写真も見たい。アングラ芸術、最高です(笑)
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