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オリジナルサイト日記
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 最盛期の半分以下に子どもの数が減ってしまった『玉の井第一小学校』の校内は、なんとなく、がらんとした印象がある。
 締め切られた教室が半分以上。特に、上のほうのフロアは、現在ではほとんど使用されていない。普通の小学校だとクラス変えだのなんだので一騒動あるところが、『一学年一クラス』のこの学校では起伏の起こりようがなかった。張り出された紙にしたがって二階の教室に入ると、何時もどおりの面子がそろっている。
 しず香は同じクラスの女の子たちへの挨拶、優は悪ガキどもとの騒ぎあい。そんな様を横目で見ながら、ノビは窓際の席の方に行く。そこにはおとなしく座っている色の白い少年が一人。
「おはよう、出来杉くん」
「ノビくん」
 おっとりと微笑む、少女のように白い顔。―――どこを見ているのか、なんとなく、焦点の合わない目。
「今日は悪い電波が聞こえるんだ」
「悪い?」
「うん。チリチリ、チリチリ。……すごく、よくない」
 よくない、と言いながらも、彼の唇はおっとりと微笑んでいる。顔かたちだけを見れば、たしかに彼は美しい少年だった。顔だけを見れば。
 どこも見ていないような薄茶色の目が、窓の外を見ている。窓の外には桜の枝。ひらひら、ひらひら、と薄紅の花びらが散る。
「何か悪いことがおこるの?」
 ノビが問いかけると、出来杉は振り返った。けれど、やっぱり彼の目は何も見ていない。何も見ないまま、ふわり、微笑む。
「……今日が、おしまいの日だよ」
「え?」
 それだけを言うと、がたん、と彼は立ち上がった。ノビの目の前でゆらゆらと歩いていく。うなじは赤い血液が流れているとは信じられないほど白かった。苦笑交じりに見送るノビの背中に、優が声をかけてくる。
「どうよ、今日の出来杉の電波占いは」
「えーっと、大凶?」
「げええ、サイアク。っつーか、ただの電波なんだから、大凶とか出すなよなー、ウチュージン」
「意地悪だよ、ジャイアン」
 優は毒づくが、その扱いにしたって、たぶん、クラスの中だとかなりマトモなほうだとノビは思う。出来杉英才。通称、"ウチュージン"。そのあだ名は、もっぱら、彼のまったくつかみ所のない言動による。ありていに言えば、彼は、『コミュニケーションが不可能』な類の人間だった。
 頭が悪いのかと言われてみれば、それはまったくの間違いで、授業などまったく聞いていないくせに、たいていの勉強は誰よりも良く出来る。それどころか、算数だの科学だのの領域だと、そもそもの知識量の並大抵じゃない水準に、教師のほうが逃げ出している節がある。並みの大人でも適わないほどの知力を持っているとすら噂されている彼だったが…… あいにく、人間的としてのスキルのほうは、さっぱりだった。
 話しかけて返事が帰ってくるのがまだいいほうで、それは『トモダチ』として認められている証。このクラスでも、まったくコミュニケーションの取れない相手のほうが多い。たぶん一番仲がいいのはぼくなんだろうなあ、とノビは複雑な気持ちで彼の出て行った先のドアを見た。真っ白な肌、か細い手足、色の薄すぎる目。そして、まるで少女人形のような、無機質に美しい顔。総体として、握り締めたらぱりぱりと砕けてしまいそうな、薄いガラスのフラジャイルな質感。去年の担任も彼にはすっかり頭を抱えていたようだったが、それでもノビは出来杉が嫌いではなかった。悪いことはしない人だもんね、と思う。
 でも、サイアクってなんだろう?
「お前、出来杉の電波占い、信じてんのか?」
「え? ああ…… うん」
「まあ、たまに当たっからなー」
 そう答える優は複雑な表情だ。ノビは、ふと、ちょっと意地悪く笑ってみる。
「……あのときの一万円、どうなった?」
 言われた優は、口いっぱいに正露丸でも詰め込まれたような顔になる。
「お前、サイアク! ノビの癖に生意気だぞっ!?」
「あはは」
 優は、以前、出来杉占いの『小吉』のその日、一万円を拾ったことがあるのだ。もっとも、それもすぐに母親に見つかって没収されてしまったから手元にはない。おそらくそれが『小吉』の『小』の由来なんだろう。だから優は半分出来杉の『占い』を信じている。……自分はどうだろう? ふと、ノビはそう思う。
 そのとき、ふと、つんつん、と服のすそを引っ張られた。
「ねー、授業、始まっちゃうよ」
 振り返ると、しず香だった。指差す先は教室のドアだ。
「あー」
「どうすんの、出来杉くん」
 にやにやと笑いながらこっちを見ている。何を期待しているのかは明らかだ。しず香は自分が授業に遅刻するようなことは絶対にしない。……はあ、とノビはため息をついた。
「しかたないなー」
「うふふー、ノビくんって優しくていい子。愛してるわよ」
「ありがと、しず香ちゃん」
 まるで母のスナックで働いているホステスのようなことを言われても、ちっとも嬉しくない。しかたなくノビは立ち上がった。窓ガラスが子どもたちの体温で少し曇っている。
「屋上じゃない? あそこ、『電波』がよく届くらしいから」
「今度は『大吉』の電波受信させてこい! 一億万円くらい拾えるくらいの!」
「はは……」
 拳を突き出してくる優に、ノビは苦笑するしかない。まあ、とにかく始業式の一日目くらい、授業を受けさせてやったほうがいいだろう。
 廊下に出ると、寒気が身に沁みた。春らしくも無い陽気だ。肌が粟立つ。ノビはぶるっと身を震わせた。
「ううっ、寒……」
 なんでこんな寒いのに外なんか行くのかなあ出来杉くん…… そんな風に思いながら、階段を上った。


 基本的には、屋上は、行ってはいけないことになっているはずの場所だ。いつも鍵だってかかっている。
 けれど、出来杉を探すと、いつだって屋上にいる。鍵はきちんとかけてある。そのはずなのに、だ。
 案の定、屋上へと続く踊り場へ行くと、南京錠が床に落ちていた。
『……どうやって開けてるんだろう?』
 現場を見ない限り謎だ。『電波占い』に続く、出来杉、第二の謎。とにかくも重たい金属のドアを開けると、びゅう、と寒風が吹き込んでくる。
「うう……」
 寒いのは苦手だ。なのに、なんでこんなところに来なきゃいけないんだろう。
 キミのせいだよ。
「出来杉くん?」
 緑色のフェンスのそばに立ち、出来杉は、透き通るような笑みを浮かべていた。
 自分で自分を抱くようにしながら、側まで歩いていく。傍らで見上げる出来杉はノビよりもいくぶん背が高い。髪は細くて、日に透かすとほとんど青に近い。膚は真冬のすりガラスの色だ。
「ねえ、授業が始まるから教室に戻らない?」
「……昔、原初の霧のなかで、宿命(フェイト)と運命(チャンス)が賽を振った。けれど、勝ったのはどちらであるか、誰も知らない」
「え?」
「どちらが勝ったのかは、誰も知らない」
 あっけにとられて見上げるノビの前で、出来杉は、なんともいえない不思議な表情を浮かべていた。笑っているようにも、泣いているようにも見える。それすらも透徹した目。透き通って意思のない目。
「時間というものは果たして存在しているんだろうか?」
「え、ええっと……」
「過去・現在・未来という流れは果たして現実なのか? 人間という生き物のなかでテロメアの消耗していく順番に『瞬間』を『記憶』という形でファイリングしたもの、それが時間に過ぎないんじゃないか?」
 相変わらず絶好調で電波を受信してるなあ、とノビは呆然とするしかない。
 とうとうと喋り続ける声はガラスの鈴のように透き通って綺麗だが、言っている内容はとにかく支離滅裂としかいいようがない。しばらくして気を取り直すと、ノビは、ガリガリと後頭部を掻いた。
 ―――出来杉が『電波』を受信し始めたら、基本的には、もう、ほうっておくしかない。
 いくら止めても無駄だ。スピーカーのプラグを抜いても、音楽そのものがストップするわけではないように、かりに口を塞いだって、『電波』は受信され続ける。そういうからには付き合うしかあるまい。ノビは五年生最初のホームルームをあきらめた。
「出来杉くんは時間は実在すると思うの?」
「不在のライターの証明。過去から現在へと移行し続けるライターは果たして存在するのか?」
「ううん…… ぼくにはよく分からないけど…… でも、確かに今日の前は『昨日』だったよね? だったら、時間は存在するんじゃないの?」
 その台詞の、どこがフックになったのか。
 出来杉が、とうとつに、振り返った。
 まじまじとノビを見下ろす。その目。透き通った目が――― 滅多にないことに――― ノビに、たしかに焦点を合わせていた。
 ガラス玉のような色の目。ノビは、背筋がわずかにぞくりとするのを感じる。
「物語の登場人物は、物語の外には出られない」
 風が吹いた。冷たい風。出来杉の、薄い色の前髪を吹き散らす。細く白い手がそれを押さえた。
「では、物語の登場人物には意思はないのか? 彼らがいかに力強く、また、意思に満ちているように見えても、彼らは運命の奴隷に過ぎないのか? だとしたら、ぼくたちもまた、運命の奴隷に過ぎないんじゃないのか?」
「……」
 怖いような目だ、と、ノビは思った。出来杉はつぶやいた。
「ほんとうは、今日は雪が降るはずだったんだ」
 ふいに、寒気を覚える。ノビは自分の身体を抱きしめた。
「ね、ねえ、出来杉くん…… 何がいいたいの……?」
 出来杉は、しばし、ノビを見下ろしていた。―――ふと、二人の間を、ふい、と桜の花びらが舞った。
 出来杉は目をそらす。その視線の先には、桜の老木があった。

「『So it goes.』」

 薄い色の唇が呟く。どこかで、聞いたことがあるような台詞。
「え……?」
 どういう意味なの。そう、聞き返そうとした。けれど。
 その瞬間だった。

 轟、と地面が揺れた。

 

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拍手について……
いえ、なにか叩いてくださった方々に不備があるっていうわけではなくて、純粋にこっちの問題で返信ができないんです~。ごめんなさい!
いただいた意見はしっかりと拝見させていただいておりますv いつもありがとうございました。


で、例のアレの続き。


*********



 玉の井の町には、東京の雑多な下町にあるようなものは、たいていある。小学校、交番、診療所から、八百屋、魚屋、コンビニまで。ただ、この町にはちょっとだけ他の町とは違うところもある。……大昔、いわゆる『赤線地帯』だった名残のせいか、風俗営業関係の店がやたらと多いのだ。
 町を歩いていれば、まだネオンが無かった当時としては精一杯にハイカラだったんだろうタイルモザイクの鮮やかな店がたくさんあるし、『花柳界』の名を仮にも背負っていたせいだろう、柳や桜の木が、そこらじゅうの街角に植えられている。とはいっても、本当の風俗街である新宿あたりが近いせいもあるんだろう、いわゆる『直球』のお店はほとんどない。玉の井でお金を落として言ってくれるのは、たいていはそういったところで遊んで帰ってきたお兄さんたちや、派手な水商売だと逆に疲れてしまうといったお年頃のお父さんたちだ。ノビが通学路を歩いていく頭上にも、『バー』だの『スナック』だの、あるいは『クラブ』だのといった文字のおどった看板が並んでいる。夜になれば派手に点灯する看板も、今はおとなしく眠っているようだ。
「おはよ、ノビくん」
「あ、しず香ちゃん」
 てくてくと歩いていると、ふいに、ぽん、と後ろからランドセルを叩かれた。振り返ると、ファーのついた可愛らしいコートの少女がにこにこと笑っている。茶色っぽい髪の二つお下げ、大きな目。級友の源しず香。
「なんか、入学式の前になって、いきなり寒くなっちゃったね」
「うん。……なんか、天気予報が雪って言ってたよ」
「嘘だあ」
 しず香はけらけらと笑う。一見の『お嬢さん風』の容姿と違って、彼女はけっこう活発な子なのだ。
「新しい先生、誰かなあ」
「でも、どうせクラスのメンバーは同じでしょ。なんか代わり映えがしなくてつまんないよね」
 はあ、としず香はわざとらしくため息をついてみせる。
「どうせだったら、あたらしい転校生とか来ないかなあ。六年間同じ顔ばっかりって、なんか、どっかの田舎の学校みたい」
「あはは、そうだね」
「本気で聞いてるのぉ?」
 白い指を伸ばして、冗談のようにノビの頬をつねる。ノビは苦笑した。
「だってさ、今年もあたしでしょ、ノビくんでしょ、優でしょ、出来杉くんでしょ…… 何かこう、新しい出来事ってのがほしくならない?」
「平和が一番だと思うな、ぼく」
「……少年は荒野を目指すべきだとおもうよ」
 キミは少年らしくない、とまたほっぺたをつねられる。あはは、と苦笑してまたノビは謝る。学校が近くなってきても、ランドセルの人影はあまり増えない。そもそも、ノビたちの通う玉の井第一小学校は、生徒の数がとても少ないのだ。
 このあたりの土地にはまだ再開発の手も伸びない。古びた三階建ての建物や、雑居ビルの類が立ち並んでいる。彼らの学校はそんな古びた建物たちに埋もれていた。
 それからもうちょっとばかり歩いていくと、やっと、ランドセル姿の子どもたちの姿が散見されるようになってくる。中には肌の色の違う子どもたちも珍しくない。このあたりで働いている外国人労働者、出稼ぎのホステスの子どもたちだ。けれど、そんな彼らも加えても、学校の生徒の人数は、総数で180人前後にすぎない。一学年に付き30人前後のクラスがひとつ。学校の部屋もあちこちが空になっている。
 狭苦しい校庭の隅だと、毎年咲き遅れのしだれ桜が、きれいに花を咲かせていた。ちょうど入学式、始業式の時期にあわせてくれるから、この桜はけっこう評判がいい。寒風に吹かれて、ソメイヨシノよりも幾分濃い色の花びらがゆれている。その下で誰かがランドセルを放り出して鉄棒で遊んでいた。小柄な少年。誰かを見分けて、ノビは、にっこりと笑う。
「おはよー、ジャイアン!」
「うおっ? ……あ、ノビかー」
 うっかり鉄棒から落ちそうになって、それから、なんとかくるりと戻ってくる。褐色の肌と、くっきりした二重のアーモンド・アイ。体格だと、たぶん、二つは学年を下に見ても可笑しくはないだろう。それでも彼も今年で五年生になる。剛田優。
「おはよ、優」
「……源か」
 身軽に鉄棒から飛び降りた優は、じとっとした目でしず香を見た。
「お前、まだ俺との約束を守る気にはなんないのか」
「おーほほほ、なんのことかしらぁ、優ちゃん?」
「その名前で俺を呼ぶなぁ!」
 優はランドセルを振り回して怒鳴る。しず香は笑いながら逃げていった。ぶう、と膨れた優の頭は、せいぜいがノビの耳の辺りまでしかない。剛田優…… 彼は、どこからどうみても、『小さい』少年だった。
 苦笑しながら見送っているノビのほうにくるりと振り返る。彼は、じとっとした目でノビを見上げた。
「……お前はちゃんと分かってるだろうな、去年の約束」
「っていうか、公約?」
「コウヤク? ……と、とにかく、俺は今年こそ、決めたんだ!」
 びしっ、と優はノビを指差した。
「名実共に、今年こそ、俺はジャイアントな男になるぜ!」
 ―――ジャイアントな男。見た目、誰よりもコンパクトな彼の、それは、口癖であり、ポリシーであった。
 ゆえに『ジャイアン』。それこそ彼の魂の名前である。……ただし、実際にそう呼んでくれる人間は、現在のところ、ノビひとりしかいない。
「それに、俺、身長が去年よりも3cmも伸びたんだぜ!」
「あはは、すごいねー」
「その口調、ムカつく。ノビの癖にーっ」
 優がランドセルを振り回して追いかけてくるから、ノビも笑いながら逃げ出した。コンクリートで舗装された校庭は狭く、子どもの足でもすぐに横断できてしまう。古ぼけた鉄筋コンクリートの校舎。ぱらぱらと登校してくる子どもたち。その上に、桜が散る。


 何時もどおりの日々の始まりだと、そう、信じていた。

拍手の返信その他が遅れていてすいません。ちょっと最近、何か返信を書くのに悩むので……
お返事はだいぶん遅れるかもしれませんが、ぽつぽつお返ししていきたいと思います。
で、その間にでも、冗談を。

例の、S・F(すこし・ふしぎ)国民的傑作マンガをテーマにしたお話です。
……あくまでも、冗談ですよ?


*******

 朝、隣の部屋へとつながるふすまを開けると、見知らぬ男が壁際で寝ていた。
「……ママ?」
「んー……」
 冷静に呼びかけると、コタツで寝ていた母がもぞもぞと身じろぎをする。化粧がまだらにはげていて、なんだかちょっと幼い印象だ。それでもコンタクトレンズだけは外していたらしい。メガネ、メガネ、とコタツの上を探り、なんとか銀縁のメガネを探し当てる。
「あー、おはよ、ノビちゃん……」
「おはよう、ママ。寝るなら部屋に行けば?」
「ううっ、頭いたー。二日酔いー」
 ノビちゃん、ポカリー、と言われて、ノビはため息をついた。こういう状態の母に何を言っても無駄だろう、ということくらいは分かっている。たしか冷蔵庫にはいつものようにスポーツ飲料が置いてあったはずだ。床に散乱した服や下着をまたいで、あまり広くは無い台所へと行く。
 ……すずめの鳴き声が、ほのかな光と共に、窓から差し込んでくる。
 ビルの間の狭い路地。見上げる空を分断する電線。夜になれば色とりどりのネオンがきらめき、薄暗い闇を歩く人々でごった返す路地も、この時間には埃をかぶったミニチュアのように薄汚い。けれど、あまり日のあたらない狭い窓際でも、母が植えたマツバボタンやゼラニウムがけなげに頑張っているし、狭い台所はこれでもきちんと片付いている。たいがいの料理は下の台所で作るから、二階の台所はそれほど広くも無い。ノビはちいさな冷蔵庫からスポーツ飲料のペットボトルを引っ張り出し、ついでに、海苔のツクダニを冷蔵庫から掘り起こし、トースターにパンを放り込んでおいた。バターを塗ったトーストに海苔のツクダニ。ミスマッチのようだが、これがなかなか美味しいのだ。
「ほら、ママ」
「ありがと、ノビちゃん」
 スポーツドリンクを受け取った母は、ふにゃりと笑い、起き上がった。母はまだまだ若い。客観的にみてもそれなりには可愛い。これでも理性があったのか、上半身には大きめのTシャツを着込んでいた。おそらく昨晩着ていたんだろう紫色のドレスは、床のすみっこでおとなしく丸まっている。
 うー、だの、あー、だのと言いながらスポーツドリンクをごくごく飲んでいる母の横で、ノビは台所に戻り、冷めて味の沁みた煮物を皿に盛る。チン、と音がしてトーストが焼けた。たっぷりと塗りつけたバターが金色にとろける。念のためを思って母の分も焼いておいた。「食べる?」と声をかけると、「食べるー」という返事が案の定、帰ってくる。お盆に煮物と海苔トーストを盛って盛っていくと、母がずるずると起き上がってくるところだった。髪にひどい癖がついている。いただきます、とノビは手を合わせ、いただきますーと母はふやけた声で言った。
「ああー、ノビちゃん、さすがあたしの息子ー。美味しいー」
「ママ、冷静になって。それ、ママの作った煮物」
「……あれ、そうだっけ?」
 今は寝ぼけてはれぼったいが、メガネの向こうの目は、ほんとうはつぶらで可愛らしいのだ。ノビはそれを知っている。可愛い童顔をした母親は現在28歳。もともとめったに家に帰ってこない父が留守にして、2ヶ月。―――ノビの家庭は、母の玉子と、息子のノビとの二人暮しだ。
 二人の家は2LDK。母と父が布団を敷く12畳の部屋と、ノビが寝起きしている6畳の和室。その上には物干し兼屋上があり、下には『スナック・エトワール』の店がある。母の仕事はスナックのママ。いわゆる、一種の『健全な』風俗業というヤツである。
 時計の針がカチリと音を立てる。7時。そろそろ、学校に行かないといけないころだ。
「ところでママ……」
 さて、とノビは思った。
 ―――いい加減、問いたださねばなるまい。
 自分はさっさと海苔トーストを食べ終わり、もそもそと煮物を食べている母に、切り出した。
「あれ、誰?」
「ん?
 それは、壁際で眠っている、一人の男であった。男というのは誤りだろうか。まだ小学生のノビには年齢は図りがたい。
 ―――おそらく、立てば身長は190cmにも近いだろうという、大柄な男だった。おそらく、まだ若い。
 何かケミカルな素材のパンツと、ごついワークブーツ。上に羽織っているジャケットもなにやら大仰な代物で、なんだか、SF映画にでも出てくる未来人と、戦争映画に出てくる兵士を一緒くたにしたみたいだった。うつむいているから顔は良く分からない。けれども何よりも問題なのだろうと思うのは、その髪の色であった。
 青いのだ。
 まるで南国の蝶の羽のような、プラスチックのような、鮮やか過ぎるケミカルな青。
 その髪が長く伸び、背中の辺りで無造作にくくられている。顔は見えない。だが、喉には何かのタグのように、大きな鈴がぶらさがっているのがみえた。……ありていに言っても、何者なのかを判断しがたい容姿だった。学生にはとても見えないし、かといって、『そっち系』の人にも見えない。ノビが知っている中では、いかなる系統にも分類しかねる容姿。
「えーっと、お客さん?」
「……ママ、適当なお客さんを家の中に入れるの、やめようよ。女の人ならともかくさ、ウチってただでさえ、ぼくとママしかいないのに」
「ううん、たぶん悪い人じゃないよー」
 まったく説得力の無い母の言葉を聞きながら、ノビは、警戒気味に男のほうを見る。
 ……息、してるよね?
 いやだが、いくらなんでも真っ青に髪を染めた若い男、なんて生き物が、いきなり家で死んでるとは思いがたい。というか、思いたくない。バカらしい青い髪に隠されてよく見えないが、顔立ちは鋭角的で、けっこう整っているように見えた。いわゆるロック関係の人とか、ビジュアル系の人ってやつだろうか。それにしては体つきがゴツいけど。
「なんて人?」
「ええと…… ドラちゃん」
 母のさまよいがちな視線の先には、テーブルの木の盆に盛られた『ドラ焼き』があった。……はあっ、とため息をつくと、ノビは傍らにおいてあったランドセルを引き寄せる。
「じゃあ、その人が起きたらさっさと追い出して、それからママもお風呂に入ってちゃんと寝てね。今日の仕込みだってあるんだし」
「はいはーい。ノビちゃん、まるであたしのおかーさんみたい」
「ママが子どもっぽいのがいけないんだよ。じゃあ、ぼく、もう行くから」
「行ってらっしゃいー」
 母がきれいなライトストーンに彩られた爪を、ひらひらと振った。ノビは苦笑しながら手を振りかえし、数歩でたどり着ける玄関で、ズック靴を履く。その拍子に、玄関の鏡に、なんとなく自分の顔が映りこんだ。
 線の細い、おとなしそうな顔立ち。細いふちのメガネ。黒髪。とりたてて言うことの無い…… 強いて言えば、あんまり発育のよくない、小学生の少年の顔。
 野比田ノビ、10歳。
 ―――今日から、彼は、小学五年生だ。

 


そもそも、『時間』ってなんなんだ、というのが昔からの私の疑問でありました。
なんで『時間』は未来へ向かっては進むのに、『過去』へ向かっては進まないんだろう? 『未来』も『過去』も同じくらい不確定なものなのに、『過去』には記憶があるというたったひとつの事実だけで、時間は『未来』へしか進まないものだと信じられている。
もしかしたら、時間はさかさまに進んでいるのかもしれない。
川が流れ、水にえぐられて渕が深くなっていく様は、フィルムを逆さまわしに見たとしたら、水が下から流れてきて、土を運んできているように見えるのかもしれない。
物理的に見たら、それは変なのかもしれないけれど、私にとってはかなりの疑問です。

私は腹が減ったからご飯を食べた→ご飯を体から次々と取り出していくことによって空腹になっていく

これが変なことであるとは、私にはちっとも思えない!
もしかしたら世の中には、さかさまの時間を生きている人たちがいるんじゃないのか? 彼らは一生の記憶について持ったまま生まれてきて、少しづつそれをすりへらし、辛いことや幸せなことを順番に体験し、最後は満足して母親の体の中に入り、そこで卵子になって回収される。そうしてその母親は、同じように少しづつ時間を逆さ戻しにしながら、生きていく。
時間枠上の川の流れの上にあたる『未来』についてのことは忘却しているけれど、彼らにとっては川の流れの下にあたる『過去』については彼らは知っている。そういう彼らをどうやって普通の人間と見分けられる? 彼らは『過去』について知っていて、『未来』については知らない。そして同じ『現在』という瞬間を生きている!
だいたい、彼らが『もうじき不幸になる』ということを知って哀しんだとしても、それは、通常の『過去→未来』という流れで生きている人々にとっては、『過去におこった不幸な出来事のことで哀しんでいるのだ』としか見えない。『さかさま人』は、そもそも、推定の上だと、普通の人間と何一つとしてかわらないのです。

いや、そもそも自分が『さかさま人』ではないと、どうやって証明するのよ?
私は『過去』については知っていて、『未来』について知らない。でも、それは私が『未来』に死をむかえ、すなわち『さかさま人』として誕生し、少しづつ自分の記憶をすり減らしながら、赤ん坊に戻り、誕生(つまり消滅)を迎えようとしている過程にいるってことを意味するだけかもしれない。「そうじゃない」ってどうやって証明すればいいのよ?

こういうことを言うと虚無主義者だと思われるかもしれないけど、そうじゃないのよ。
たとえば、本のページを開いてみる。そこには登場人物たちの悩みや苦しみ、ピンチや苦闘が描かれている。次のページをめくるとそれは報われあるいは報われていない。では、彼らがそうやって懸命に生きることは無意味だろうか? 違うでしょう。そうやって、『夢中で生きる』ということそのものが、そのキャラクターの存在意義そのものなんですから。

なにやら小説を書いていると、そういうことを考えずにはいられない。
そもそも、私が彼らを書いているのではなく、彼らが『自分たちを記述させるために』私を創造(想像)したんじゃないと言えるの。
私は物語の主人ではなく奴隷です。物語を私に奉仕させることは出来ない。私は物語に奉仕しています。
私はもしかしたら、自分の人生で一つの物語を書くっていう使命の下に生まれてきたのかもしれない。だとしたら私の未来は決まっている。でも、それが『努力した末に成功する未来』なのか、『努力した末に失敗する未来』なのか、あるいは『努力しない末に失敗する未来』なのかも分からない。
だったら、この瞬間が求めるように生きるしかないでしょう?

とか、いろいろと時間論について考えていたのでした。
……例の青いネコ型ロボットのために。(笑

遅くなってすいませ……(吐血)

3/31 回想列車~ (T T)(T T)(T T)(T T) >
久しぶりに『子ども』も『虐待』も出てこない話ではございました……
別に泣ける系を意識していないのに、なにか切なげな話に。でも、ボケの入ったお年寄りが『お家』に、あるいは『職場』に帰りたいと訴え続ける姿には、何か、非常に切ないものがあると思います。
内側から見た痴呆老人というのだと、マンガの『金髪の草原』(大島弓子)、『田辺のつる』(高野文子)なんかのイメージが秀逸です。でも、どっちにしろ切ないんだよなあ。

4/4 ヨタカがんばれっ!! >
声援ありがとうございます。お言葉に答えまして、彼はビシビシ働かせようと思います(笑)
何か『脱がされる』が仕事のような主人公ですが…… ほ、他にも出来ることはあります。たぶん、きっと。
今現在連載が停滞中の黒鳥城ですが、お言葉をいただけると励みになります。続きは気を長くしてお待ちいただけると嬉しいです~。


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